Memorise Off2nd~Cross aubade~

第12章 忘れ去られた言葉が蘇るとき

智也の目の前にひとりの少女が立っていた。
整った顔立ち。
利発さを秘めた愛らしい瞳。
さらさらとした長い髪。
智也はその少女をよく知っていた。彼女が忘れたくても忘れられない存在だったからである。
幼なじみであり、恋人だった少女。
智也が一番愛していた少女。
少女───桧月彩花は憂いを帯びたまなざしで智也をじっと見つめていた。
「あ、彩花・・・!」
彩花の突然の出現に、智也は驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべた。
何故、彼女がここにいるのかという疑問が湧き上がる。
「智也・・・唯笑ちゃんにあのときの言葉を伝えてあげて・・・」
彩花は真剣な面持ちで口を開いた。
「あのときの言葉って、いったい何なんだ?」
智也は彼女の言葉を聞いて、新たな戸惑いを覚えた。
「昔、私たち3人が言った言葉よ。今の唯笑ちゃんにはそれが必要なの。だから、その言葉を智也自身の口で伝えてほしいの」
と言った瞬間、彩花の体が薄れ始めた。
「待ってくれ、彩花!まだ話が終わっていない!彩花!」
智也の懸命の呼びかけも虚しく、彩花はこつ然と姿を消した。
「彩花!」
次の瞬間、智也は布団を上げて身を起こしていた。
古ぼけた天井と畳が視界に映り、ここが自分の部屋だということを認識させられる。
「夢か・・・」
智也は顔に手を当て、ぽつりとつぶやいた。
久しぶりに見た彩花の夢がもたらしたものは、いつものような悲しみや寂しさではなく、大きな疑問だった。
彩花が告げた「あのときの言葉」について考えてみたが、それがどんな言葉か思いつかなかった。
ただし、智也、彩花、唯笑の3人が共通して知っている言葉だというだけは分かった。しかし、分かることはただそれだけだった。
智也は不可解な謎を抱えたまま布団から出ると、着替えを始めた。
今日は智也にとって特別な1日だった。
幼なじみとの再会を果たすため、約1年ぶりに藍ヶ丘町へ戻るからである。
そんな重要な日に、今は亡きもうひとりの幼なじみの夢を見たことに、智也は運命を感じずにはいられなかった。
「そろそろ行こうか」
着替えを済ませた智也は、自分に言い聞かせるようにつぶやくと、自室のドアを開けて外に出た。
鏡塚荘を出ると、海岸線に沿って続く歩道を歩き、桜峰駅へと向かう。
20分ほどの時間を費やして駅にたどり着いた智也は、古びた改札を通り抜け、ホームに入った。
そして、そこで7分ほど待つと、藍ヶ丘駅行の電車が到着し、智也はそれに乗り込んだ。
電車内はガラガラで、座席も好きな場所を選べるほどの余裕があった。智也は窓際の席に座を選んで座ると、ぼんやりと窓の外を眺めた。
桜峰町と藍ヶ丘町は、この「私鉄芦鹿島電鉄芦鹿島線」によって結ばれており、だいたい15分ぐらいで両区間を移動することができる。
帰ろうと思えば、いつでも帰れる距離なのだが、それでも智也は藍ヶ丘町に足を踏み入れなかった。悲しい記憶を完全に消し去るために。
しかし、智也の決意には矛盾が生じていた。それは智也が桜峰町にいることである。もし、本当に彩花のことを忘れるつもりなら、藍ヶ丘町とは何のつながりもない遠い場所に行けばよかったのだが、何故かそうしなかった。それができなかったのは、彩花との思い出を断ち切ることを本能的に拒んだからかもしれない。当時の自分はそこまで考える余裕などなかったので、今そう思っても違和感はない。
電車はほぼ予定どおりの時刻で、藍ヶ丘駅に到着した。
智也は電車から降りて改札口を出ると、立ち止まって辺りを見回した。
1年前とほとんど変わらない街並みに、懐かしさを覚える。
桜峰町とは異なり、時代に沿った造りをした建物が立ち並ぶこの町で、智也は生まれ育った。ここは彼にとって、希望と絶望を象徴する町だった。
希望は彩花と過ごした甘い日々。
絶望は彩花の死。
相反するふたつの事象は、すべてひとりの少女によってもたらされ、その結果、智也は絶望に屈し、彼女の思い出とともに藍ヶ丘町を捨てた。
もう戻ることはないと思っていた。ところが、智也は彩花との思い出が眠る藍ヶ丘町に帰って来た。他人の後押しがあったものの、最終的には自らの意思で、不可侵の聖域に足を踏み入れる決断を下したのだ。
今、成すべき事はただひとつ。もうひとりの幼なじみと会うこと。言葉だけでとらえると、すごく単純で簡単なことなのだが、智也にとっては複雑かつ勇気のいる目的だった。
智也は一度小さく深呼吸して、ふたたび歩き出した。
それから10分ぐらいの時間が過ぎ、智也は目的地の公園にたどり着いた。
智也は公園の入り口を通り抜けると、噴水のあるエリアを横切り、砂場のある場所に行った。
すると、砂場のそばでもうひとりの幼なじみ───今坂唯笑が立っているのを発見した。
智也は唯笑の姿を見たとたん、思わず歩みを止めた。
智也が知っている唯笑とは、まったく違う雰囲気を感じたからである。
彼女はひと目で分かるほど、悲しみに満ちた表情をしていた。正直な話ここまで追い詰められていたとは、思ってもみなかった。
そんな唯笑を見て、彼女をこんなふうにした原因は自分にあると、智也は強い自責の念を覚えた。
「唯笑・・・」
かすれた声で幼なじみの名前を呼ぶ。まるで話しかけることをためらうかのように。
耳を澄まさなければ聞こえないほどの声だったが、唯笑はその声に反応し、こちらに顔を向けた。
「と、智ちゃん・・・?」
唯笑は驚愕の表情をありありと浮かべながらその場に立ち尽くしていたが、やがてふらりと一歩前に足を踏み出した。
そして、次の瞬間、猛然と駆け出した。
「智ちゃん!」
勢いよく智也の胸に飛び込む。そのときの衝撃で、智也は危うく倒れそうになった。
「智ちゃんの馬鹿!どうして唯笑に何も言わずに出て行ったの!唯笑はすごく・・・すごく心配したんだよ・・・!」
唯笑の声が涙で震える。
智也のシャツを掴む細い腕に強い力が込められ、彼女の言葉に秘められた思いの強さを表していた。
智也は罪の意識を感じずにはいられなかった。
「すまない、唯笑・・・」
これが今の智也に言える精一杯の言葉だった。
「ううん、もういいの。智ちゃんがこうして唯笑のところに来てくれたから・・・それに、悪いのは智ちゃんの心を理解していなかった唯笑だから、謝るのは唯笑のほうだよ。ごめんね、智ちゃん」
「いいや、唯笑が謝ることなんてない。悪いのは俺だ。俺が身勝手な行動をしたせいで、おまえを苦しめてしまったのだから」
「智ちゃん、もう何も言わないで。もう過ぎたことだから・・・こうして智ちゃんと会うことができたから、唯笑はそれだけで十分嬉しいよ」
唯笑はそう言って頬を智也の胸に押し付けた。
「唯笑・・・」
智也は両腕でそっと唯笑の体を包み込んだ。
「智ちゃん・・・唯笑のところに帰って来て。そして、唯笑のそばにいて。唯笑は智ちゃんがいないと駄目だから・・・」
唯笑はすがるようなまなざしで智也を見つめた。彼女の視線と言葉が智也の心に波紋を起こす。波紋は激しい動揺を生み出し、智也に困惑をもたらした。
「・・・すまない、唯笑・・・それはできない・・・」
搾り出すような口調で答える。苦渋の選択とはまさにこのことだ。
「どうして!?どうして駄目なの!?」
唯笑は顔を上げると、悲痛な面持ちで智也に詰め寄った。予想どおりの行動だった。
智也はその行動に対する答えを模索するのに、しばしの時を要した。
「・・・桜峰に大切なひとがいるんだ・・・」
智也は逡巡しながらひとつの答えを出した。もっと他に気の利いた言葉をかけられるような気がしたが、まったく思いつかなかった。そんな自分の不甲斐なさに、智也は自嘲の念を抱いた。
「そんな・・・」
唯笑の顔に失望の色が濃く浮かぶ。
と次の瞬間、唯笑の表情が一変した。
「そんなのやだよ!せっかく智ちゃんが戻って来てくれたのに、またいなくなるなんて絶対にやだ!唯笑、絶対に智ちゃんを行かせないもん!智ちゃんがいなくなったら、唯笑はまたひとりぼっちになっちゃう・・・唯笑はもうひとりぼっちになるのは嫌だよ・・・お願いだから、唯笑をひとりにしないで・・・お願い・・・」
唯笑は刹那の激情をぶつけたのち、智也にしがみついて泣き崩れた。
背中に回された唯笑の両腕が智也の体を締め付ける。その両腕には、小柄で華奢な彼女から想像できないほどの力が込められており、智也は息苦しさを覚えた。
智也は途方に暮れ、呆然とその場に立ち尽くした。
今、ここで唯笑を突き放さなければならないことは分かっている。しかし、彼女の涙で濡れた瞳がそうすることをためらわせた。
このまま智也の考えを貫けば、唯笑はもう二度と立ち直れなくなってしまうに違いない。それだけはなんとしても避けなくてはならない。
───俺はいったいどうすればいいんだ・・・
心の中で自問自答をする。
選択肢はふたつある。自らの思いを変えないか否か。単純な二択で、選ぶべき答えもすでに出ている。それなのに、選ぶことができない。
ふたつにひとつ・・・頭では理解していても、心が理解しようとしなかった。
智也は必死にこの状況を打開できる術を模索した。
しかし、唯笑を傷つけずに、つばめのことを認めさせるという都合のいい方法など簡単に見つかるはずもなく、刻々と時間が進んだ。
───何か、何か方法はないのか・・・
時間の経過に比例して、焦燥感が募っていく。
そのとき、不意に乾いた一陣の風が吹き抜け、聞こえるはずのない声が智也の耳に入った。

『唯笑ちゃんにあの言葉を伝えて・・・昔、私たち3人がここで交わしたあの言葉を・・・』

風に乗って届いた声は間違いなく彩花のものだった。智也はまさかと思いながら、周囲を見渡した。しかし、当然のことながら彩花の姿はどこにもなかった。
一般的に考えると、幻聴としか考えられないが、智也はそれが幻聴なんかではないと思った。もっとも、これは個人的な見方で、何も根拠がないのだが・・・
───昔、ここで俺たちが交わした言葉って何なんだ?
智也は記憶を遡らせ、彩花が言った言葉の手がかりを探した。
幼い頃の智也と彩花と唯笑・・・公園・・・笑顔で満ち溢れていた日常・・・
懐かしい日々が思い起こされた瞬間、ある光景が智也の頭の中で浮かび上がった。
それは公園の砂場で泣いている唯笑に智也と彩花が話しかけているというシーンだった。
───そうか、思い出したぞ!彩花が言ったあの言葉って、あのとき、唯笑に言った言葉のことだ!
その刹那、投げかけられていた謎を解けた。
「唯笑・・・おまえはひとりぼっちなんかじゃない。唯笑には俺と彩花がいる。俺たち3人はどんなときもずっと一緒だ」
智也は穏やかな口調で思い出した言葉を告げた。
すると、智也の体を締め付けていた唯笑の腕の力が急速に弱くなった。
「・・・唯笑には智ちゃんと彩ちゃんがいる・・・」
「ああ、そうだ。俺たち3人はいつも一緒にいる。初めて出会ったときからずっとな」
智也は唯笑を強く抱きしめた。少しでも智也の存在を強く感じさせるように。
「本当に・・・本当に・・・唯笑には智ちゃんや彩ちゃんがいるの?本当に唯笑はひとりぼっちじゃないの・・・?」
「ああ。唯笑はひとりぼっちなんかじゃない。俺と彩花がいる」
智也は力強くうなずいた。
「そっか・・・そうなんだ・・・唯笑はひとりぼっちじゃなかったんだ・・・唯笑には智ちゃんと彩ちゃんがいたんだ・・・」
ふたたび唯笑の瞳から涙が溢れ出す。しかし、この涙は先の涙とは違っていた。悲しみではなく喜びが込められているからである。
「ねえ、智ちゃん。智ちゃんにふたつお願いしたいことがあるんだけど、いい?」
落ち着きを取り戻した唯笑が顔を上げて智也を見つめた。
「俺にできることなら構わないぞ」
「あのね、智ちゃんの住んでいる場所と連絡先を教えて欲しいの。せっかく再会できたのに、ここでお別れして会えなくなるのは嫌だから、せめて携帯の番号ぐらいは知っておきたいの。ときどき会うぐらいならいいよね?」
「ああ、もちろんいいとも。それなら、あとで携帯の番号と住所をメモに書いて渡そう。それでもうひとつのお願いは何だ?」
智也はひとつ目に頼みを快諾したあと、次の頼みの内容を尋ねた。
「えっとね、今日だけ唯笑と一緒にいて欲しいの。駄目かな?」
唯笑が不安げなまなざしを向ける。
「ああ、いいぜ。今日はとことんおまえに付き合ってやるよ」
「ありがとう、智ちゃん」
唯笑は智也の胸の中で、嬉しそうな表情を浮かべた。それを見た智也は、ようやく本来の彼女らしさが戻ってきたと思って安堵した。
これもひとえに夢を通じて現れてくれた彩花のおかげだといえる。
───ありがとう、彩花・・・
心の中で、今は亡きもうひとりの幼なじみに感謝の言葉を送る。
その刹那、心地よい風が吹いて、ふたりを優しく包み込んだ。まるでふたりを見守るかのように。
こうして、智也と唯笑は1年ぶりに同じ場所で同じ時間を過ごした。