Memorise Off2nd~Cross aubade~

第6章 緩やかな接近

巴が藍ヶ丘町に戻るのは約1年ぶりのことだった。
父親の突然の死によって、巴は藍ヶ丘町を離れ、母親の実家に身を寄せていたが、演劇専門の学校への進学に伴い、ふたたびこの町にやって来た。
そして、彼女は昔、所属していた劇団「バスケット」に復帰し、そこの演出家である森さんという人物の世話を受け、アパートでひとり暮らしを始めている。
こうして、巴は自分の夢を叶えるべく、思い出の地で新たな一歩を踏み出した。
薄い朝日が差し出した頃、巴は舞台の台本を持って、いつもの場所に向かった。
いつもの場所とは、彼女が偶然見つけた公園のことである。
公園内に入った巴は、もはや指定席となっている噴水のそばに置いてあるベンチに向かった。
そこで台本に目を通し、振り付けをこなすことが巴の日課となっていた。
現在、「バスケット」は1週間後に、ここ藍ヶ丘町で行われる舞台公演に向け、着々と準備を進めている。
本番までの残り時間が少ないこともあり、巴は己の演技を少しでも万全にするため、早朝の練習を取り入れていた。
しかし、巴がそこまで練習に熱を入れていることには、時間的な理由の他にもうひとつあった。
それは、劇団復帰したばかりの巴がなんとヒロイン役に抜擢されたからである。
この意外過ぎる選抜の背景には、お世話になっている演出家の森さんの配慮があったのは、ほぼ間違いない。
そこまで自分に期待をしてくれている森さんのためにも、なんとしても今回の復帰最初の舞台を成功させたい。巴は他の役者たちよりも強く思った。
───あら、あそこにいるのはひょっとして・・・
ベンチに向かう途中、巴はふと歩みを止めた。
同時に彼女の視線がブランコのほうに向けられる。
そこにいるのは同じ年頃の少女だった。
───間違いない、やっぱりそうだ。
少女が自分の知り合いであることを確信し、巴は進む方向を変えた。
「はおっ、ゆえゆえ」
巴の呼びかけに少女が顔を上げる。
「あ、あなたは・・・ととちゃん?」
ゆえゆえと呼ばれた少女───今坂唯笑は信じられないといった感じの表情を見せた。
「そうだよ、ゆえゆえ。でも、驚いたな。まさかこんなところで会えるなんて思わなかったよ」
「唯笑だって、ととちゃんがいきなり現れたから、びっくりしちゃったよ」
「ひどいなあ、そんな言い方されると、まるで私が幽霊みたいじゃない」
「エヘへ、ごめんね、ととちゃん。でも、本当に本物のととちゃんだよね」
「もうっ、ゆえゆえったら」
ふたりの少女は互いに顔を見合わせ、笑い合った。
巴と唯笑が初めて会ったのは、高校2年生の文化祭のときだった。
このとき、巴のクラスが文化祭の催し物で劇をやっており、唯笑は見物客としてその場にいた。
そして、巴の演技に感動した唯笑が劇の終わったあと、巴に話しかけたことから親しい間柄となった。
巴はあのとき、はしゃぎながら率直な感想を述べてくれた彼女の表情を、今でもしっかりと覚えている。
名前のとおり、笑顔がとても似合う女の子だというのが第一印象だった。
「ととちゃんとこうして話すのは高校以来になるんだよね。ところで、ととちゃんはいつ藍ヶ丘に戻って来たの?」
「2ヶ月くらい前になるかな。実家のほうが落ち着いたから、またここに戻って来たんだよ。それより、ゆえゆえはこんな朝早くにどうしてここにいるの?あ、もしかして、いつも一緒にいた幼なじみとデートの待ち合わせとか」
巴がいたずらっぽく笑ったのに対し、唯笑は表情を一変させた。
「ど、どうしたの?」
そんな彼女の変化に気づいた巴は、疑問の言葉を口にした。
「智ちゃんはもう唯笑のそばにいないの・・・」
消え入りそうな声で答える唯笑の顔には、悲しみの色が浮かんでいた。
「いないって、どういうことなの?」
巴はここにきて、ようやく唯笑のまわりで大変なことが起きていることを察した。
「あのね・・・智ちゃんは高校卒業してから急にいなくなったの・・・」
「急にいなくなったって、どうしてそんなことになっちゃたの?」
「分からない・・・唯笑にも分からないの・・・智ちゃんがなんで唯笑の前からいなくなったのか分からないの・・・どこにいったのかも分からないの・・・」
唯笑のあまりにも悲痛な声と表情に、巴はしばしの間、言葉を失った。
「そうなんだ・・・ごめんね、つらいことを聞いてしまって・・・」
「ううん、ととちゃんが謝ることなんてないよ。ととちゃんは何も悪くないんだから」
と言って弱々しく首を横に振る唯笑を見て、巴は不用意な発言をしてしまった自分に腹が立った。
なんとかして元気付けてあげたいと強く思うのだが、気ばかりが急いて、肝心の言葉が見つからない。
───なんでもいいから、私にできることはないのかな・・・
彼女の喜びそうなことや好きなものを模索するため、過去を振り返って見る。
そして、初めて唯笑と会ったときのことを思いだしたところで、記憶を遡らせるのをやめた。
───今の私にできることはやっぱりこれしかないよね。
巴はポケットから小さな紙きれを2枚取り出すと、唯笑に差し出した。
「ゆえゆえ、今度の日曜日に私の劇団が公演やるから、よかったら見に来てよ」
「え、ととちゃん、ただでくれるの?」
「もちろん。ちょうど2枚あるから、演劇に興味がある友達とかいるなら、一緒に行くといいよ」
「ありがとう、ととちゃん。私、絶対に見に行くね。ととちゃんのお芝居、唯笑は大好きだから」
唯笑はチケットを両手で包み込むように受け取ると、かすかな笑みをもらした。
それを見て、巴は少しだけ安堵した。
「私もゆえゆえに楽しんでもらえるように、精一杯頑張るね」
巴は満面の笑顔を浮かべ、小さなガッツポーズを見せた。


今日のバイトを終えた健は、ある報酬を手にした。
それはバイト仲間から勤務時間の交代を頼まれて引き受けた際に、その見返りとしてもらった大きな紙袋で、中にはまるまる太った猫のぬいぐるみが入っていた。
なんでもゲームセンターで手に入れた景品らしく、そのバイト仲間は健と取引をしたあと、おかげで彼女とデートができるうえに大きな荷物もなくなったと、手放しで喜んでいた。
それとは対照的なのは健だった。
見返りという条件につられ、承諾した結果が一番忙しい勤務時間になったあげくに、大きな荷物を押し付けられるという最悪な展開だったので、その落ち込み具合は計り知れない。
しかし、引き受けてしまった以上、もはやどうすることもできず、ただうなだれるしかなかった。
───まったく、普通見返りといえば、現金とか食事とかじゃないのか。
健は恨めしそうに紙袋を睨みつけた。
もとを正せば、甘い誘惑に乗った自分が一番悪いのだが、それで納得できるほど健はまだ大人ではなかった。
バイト仲間のしてやったりという感じの笑顔が何度も思い出され、そのたびに悔しさと腹立たしさが込み上げる。
───だけど、ぼくがこれを持っていても仕方ないし、どうしようかな・・・
健は大きな頂き物の処置について思案した。
このぬいぐるみは健にとっても、無用の産物だったので、これを家に持って帰ったところで、何の役にも立たない。
かといって、このまま単に捨てるのは、これを手に入れたのと引き換えに払った代償の大きさを考えると、あまりにももったいない。
それなら、もらって喜んでくれるひとにあげるのが一番の理想だろう。
その対象となり得るのは、ぬいぐるみが好きな人物か猫好きの人物になるが、健の身近にいる知人に該当者はいなかった。
「あ、そうだ。今坂さんなら喜んで受け取ってくれるかもしれない」
健は公園で知り合いになった少女が、猫のキーホルダーを大切にしていたことをふと思い出した。
これで渡す相手は決まったが、ここで問題がひとつあった。それは唯笑との連絡手段を知らないということである。
「とりあえず、公園に行ってみるか」
健は腕時計に目をやった。今から公園に行けば、ちょうど初めて彼女と出会った時間と重なる。この時間帯なら、もしかすると会えるかもしれない。
そう考えた健は偶然の出会いを期待しながら、公園に向けて歩き出した。
それから10分ほど歩いたところで、健は目的の場所にたどり着いた。
探していた少女は、初めて出会った場所であのときと同じように立っていた。
運良く偶然の出会いを果たせた健は、ゆっくりと彼女に近づき、声をかけた。
「今坂さん」
「あ、伊波さん」
健の呼びかけに反応し、唯笑がこちらに体を向けた。
「今坂さん、あの、実はこれ、バイト仲間からもらった猫のぬいぐるみなんですけど、もしよかったら受け取ってくれませんか」
健が袋からぬいぐるみを取り出すと、唯笑の目が大きく見開かれた。
「え、これを私にくれるんですか!?そんな、駄目ですよ。それじゃあ、伊波さんに悪いです」
「遠慮しないで、是非受け取ってください。どうせこのままぼくが持っていても、何の意味もありませんし、このまま持って帰っても、置き場所に困って捨てるしかありませんから」
「え、そうなんですか。それじゃあ、ありがたくもらいますね」
「そうしてください」
健の手からぬいぐるみを受け取った唯笑は、感嘆のため息をついた。
「うわあ、可愛い。まるでニンニンネコピョンみたい」
「なんですか、そのニンニンネコピョンって」
「妊娠しているネコピョンのことですよ」
「はあ、そうなんですか」
健は意味不明な言葉に小首をかしげた。
「伊波さん、こんな可愛いぬいぐるいをくれて、本当にありがとうございます。私、ずっと大切にしますね」
「こちらこそ、おかげで助かりました」
唯笑の喜びの表情を初めて見た健は、つられて嬉しい気持ちになった。
ここに来るまでは、ぬいぐるみを渡したバイト仲間を恨んでいたが、今ではすっかり感謝に変わっていた。
「それじゃあ、ぼくはこれで失礼します」
「あ、ちょっと待ってください」
用件を終え、立ち去ろうとしていた健を唯笑が呼び止めた。
「あの、伊波さん。伊波さんは演劇って好きですか?」
「え、演劇ですか?ぼくは別に好きでも嫌いでもないですけど・・・」
意外な質問に目を丸くする。
「あ、そうですか。あの、もしよかったら、偶然再会した高校時代の友人から演劇のチケットをもらったので、一緒に見に行きませんか?」
「え、ぼくとですか?」
突然の誘いに思わず健の声が大きくなった。
───これって、デートの誘い・・・ってことになるのかな?
そう考えるだけで、自然と顔が火照り、胸が高鳴った。
「ええ、そうですけど・・・あ、もし、私と一緒が嫌でしたら、無理しないでください」
「嫌だなんてとんでもない。えっと、その本当にぼくとなんかでいいんですか?」
「ええ、私は全然、構いませんよ」
「そうですか。それなら、是非、ご一緒させてください」
健は飛び跳ねたくなるほどの嬉しさを覚えた。
「よかった。それじゃあ、劇は今週の日曜日ですから、当日の10時にここで待ち合わせするということでいいですか?」
「分かりました。もし、何か変更がありましたら、ぼくの携帯番号を教えておきますので、連絡してください」
「それじゃあ、私の家の電話番号も教えておきますね」
健と唯笑はお互いの連絡先を教えあったあと、1週間後の再会を約束して、それぞれの帰路についた。