Memorise Off2nd~Cross aubade~

第12章 まだ見ぬ先を見据えて

登波離橋───そこは健にとって、出会いと別れを象徴する場所だった。
出会いは2年前のクリスマスイヴ。健が携帯電話を落としてしまい、それを同じクラスメートだった白河ほたるが拾ったことから始まった。
落とした携帯電話を受け取るため、健はここでほたると待ち合わせをして会った。
そして、そのとき携帯電話と一緒に彼女の告白を受けるという予想だにしていなかった出来事が起こり、健は大きな驚きと戸惑いを覚えた。
今までろくに会話すらしていなかった相手にいきなり告白されたのだから、驚くなというほうが無理である。
結局、健はほたるの自然な愛らしさと見かけとは異なる積極的な姿勢に魅せられ、付き合うことになった。
ここから楽しい日々が始まった。
商店街でのウインドウショッピング、映画館での映画鑑賞、プールでの遊泳など数えたらきりがないくらいほたると過ごした。今思えば、このときが一番楽しかった時期だといえる。
しかし、そんな日々は夏が終わりに近づく頃、突如終わりを告げた。
周囲からもベストカップルだと言われていたほどの仲だったにも関わらず、健とほたるは別れてしまった。
何が原因だったのか?
その答えは健にもほたるにも分からなかった。
ただいえることは、健のせいでもなければ、ほたるのせいでもないということだけだった。
「始まり」と「終わり」があるように、「出会い」と「別れ」がある。
それは人が生きている間に、幾度も体験しなくてはならない必然の事象である。
故に、健がほたると別れたことも、ある意味自然的な流れといえるだろう。
もっとも、お互いの気持ちがもっと強ければ、この「別れ」は訪れなかったのかもしれないが、今更、そのことに触れても仕方がない。
健とほたるは別れた。これが覆すことができない現実なのだ。
その別れから約1年の月日を経て、健はふたたび登波離橋に足を踏み入れた。
ほたるは、健と初めて会った場所に立っていた。
「健ちゃーん!」
ほたるは健のことに気づくと、満面の笑顔を振りまきながら駆け寄ってきた。
健は久しぶりに再会した元恋人の姿を見て、改めて月日の流れを感じた。
今のほたるは健の知っているほたるとは微妙に違っていた。
外見や仕草そのものに変化は見られない。しかし、内面から漂う雰囲気が明らかに違っていた。少し大人になったというべきであろうか。1年余の歳月は、確実に彼女を成長させていた。
月日の流れは人を成長させるという。目の前に立っているほたるが、そのことを見事なまでに証明していた。
───それにひきかえ、ぼくは・・・
何も変わっていない自分自身に対し、苛立ちと焦燥感を募らせる。
「健ちゃん、今日はほたるのために、会う時間を作ってくれてありがとう」
「あ、ああ・・・」
無邪気な笑みを浮かべるほたるに対し、健は思わず曖昧な返事を返した。実際は、自分の意思ではなく、翔太や唯笑に背中を押される形でほたると会うことになったので、お礼を言われると、かえって後ろめたさを覚えてしまう。しかし、そのことを言えるはずもなく、健はそのまま感謝の気持ちを受けるしかなかった。そんな自分自身がつくづく嫌になる。
「元気そうだね」
健はとりあえず話しかけた。
「うん、ほたるは元気いっぱいだよ!健ちゃんも元気にしてた?」
「う、うん、まあね」
またもや曖昧な返事をする。健はぎこちない会話しかできないことに焦りを覚えた。
「ほたる、今日はどこか行きたい所とかあるのか?もし、あるなら付き合うけど」
「ほたるね、今日、健ちゃんと一緒に桜峰町を歩きたいなあと思っているんだけど、駄目かな?」
「ああ、別に構わないよ」
健はほたるの申し出を承諾した。特に何をするか決めていなかったので、健にとってその申し出は好都合だった。
やることが決まり、ふたりは並んで歩き出した。
最初に向かった場所は、3年間過ごした浜咲学園だった。
校門をくぐって中に入ると、今日が土曜日ということもあって、運動部の部員がグラウンドでそれぞれの練習をこなしていた。
「懐かしいね」
「そうだね」
健はグラウンドを眺めながら、ほたるの言葉に同意を示す。
その視線の先には、サッカーボールを追い回すサッカー部員の姿があった。
健は彼らの姿に、過去の自分を重ねた。
振り返ってみると、まさにサッカー一筋の学園生活だったといえる。
あの頃は本当にサッカーが好きで、ひたむきにボールを追いかけていた。
先のことなど考える余裕などないほど、24の時が短く感じられた。
充実一途の日々・・・何の迷いもなかった日常・・・
当時は、こんな充実感あふれる日々が終わるとは思ってもみなかった。
しかし、そんな日々にも「終わり」が訪れ、気がつけば現在に至っている。
健は改めて目的の有無の差を痛感させられた。
「あ、もしかして、そこにいるのは伊波先輩と白河先輩じゃないですか?」
不意におっとりとした声が健とほたるの耳に入った。
声のした方向を見ると、眼鏡をかけたロングヘアの少女が立っていた。
「君は確か水泳部の・・・」
健は少女の顔を見て、すぐに彼女と面識があることを思い出した。
「はい、舞方香菜です。ご無沙汰しております」
舞方香菜と名乗った少女は、長い髪を揺らしながら頭を下げた。
彼女は健やほたるの1年後輩にあたる少女で、水泳部に所属していた寿々奈鷹乃というクラスメートを通じて知り合いになった経緯がある。控えめでおっとりとした可愛い女の子である。
「お久しぶり、香菜ちゃん。水泳のほうは頑張ってる?」
ほたるは微笑みながら軽く手を上げた。
「はい。私、鷹乃先輩と同じ大学に入りたいので、その推薦の資格を得るため頑張ってます」
「へえ、そうなんだ。香菜ちゃんは鷹乃ちゃんと同じ大学を志望しているんだ」
「はい。鷹乃先輩は私の目標ですから、少しでも先輩に近づきたいんです」
「香菜ちゃんならきっと合格できると思うよ。だから、頑張ってね」
「はい、ありがとうございます!」
香菜は目を輝かせながら頭を下げた。
「香菜せんぱーい。先生が先輩を探していましたよー」
とそのとき、香菜の後輩らしき水泳部員が遠くから声をかけてきた。
「あ、顧問の先生が呼んでいるみたいなので、これで失礼します」
「じゃあね、香菜ちゃん」
「本当はせっかく来て頂いたので、ゆっくり学園内を案内しながらお話したかったのですが・・・すみません」
「そんなこと気にしないで。私たちは勝手に見学するから。こう見えても、私たちは浜咲学園のOBとOGだから、少なくとも迷子にはならないから大丈夫だよ」
と笑顔で言うほたる。
「ウフフフ、そうですよね。でも、もし迷ったらプールに来てください。それじゃあ、失礼します」
香菜は一礼をして、小走りで後輩のところに向かった。
「香菜ちゃん、鷹乃ちゃんのいる大学に合格するといいね」
「そうだね・・・」
健は一瞬だけ複雑な表情を見せ、そうつぶやいた。
本心はほたると同じ気持ちなのだが、素直にそう思えない理由があった。
確固たる目標を持ち、それに向かって進んでいる香菜に対して、かすかな羨望と嫉妬を抱いてしまったからである。
ないものねだりをする子供のようだと己の心の狭さに嫌悪感を持つ。
また、同時に明確な目標を掲げることができない自分に、どうしようもないくらいのもどかしさを覚えた。
ほたるにはピアノがある。香菜には憧れの先輩と同じ大学に入るという夢がある。それにひきかえ、今の健には何もない。健はひとりだけ取り残されたような気分にかられた。
「どうしたの、健ちゃん?」
ほたるは健がぼんやりとしていることに気づき、声をかけた。
「いや、なんでもない」
健は小さくかぶりを振って答えた。
ふたりは簡単に学園内を散策したあと、桜峰の町並みを歩いた。
桜峰駅周辺・・・動物園・・・公園・・・どこも健が桜峰町にいた頃と何ら変わりもなかった。
健は歩いている最中、ずっとほたるの様子をうかがっていた。
隣で歩く彼女の姿も町の風景と同様、変わっていなかった。健のそばに無邪気な笑みを浮かべて話すほたるがいる。それはまるで学生時代のふたりを再現しているかのようであった。恐らく、端から見れば、仲睦まじいカップルに見えるだろう。
しかし、もうふたりは恋人同士ではない。そのことは当人同士が誰よりも一番よく知っている。もう赤い糸のつながりがないことを。もう昔のふたりではないことを。
同じように見えて違うふたり。恋人同士と元恋人同士。一字の違いが健とほたるの間には、見えない隙間を作り出していた。その隙間がどれくらいのものかは分からない。今のふたりの雰囲気が、昔とさほど変わらないところから判断すれば、小さいように思える。しかし、逆にあまりにも大きすぎて、違和感を感じなくなっているとも考えられる。どちらにせよ、その隙間によって、今の健とほたるの関係が微妙で不確かな位置にあることを示していた。
桜峰町をひととおり歩いた健とほたるは、待ち合わせ場所に指定していた登波離橋に舞い戻った。あっという間に時間が過ぎ、橋に着いたとき、辺りは橙一色に染まっていた。
「健ちゃん、今日は本当にありがとう。すごく楽しかったよ」
「お礼なんていいよ。ぼくは何もしなかったから」
健は、改まって礼を述べるほたるに向かって、やんわりと答えた。
「そんなことないよ。健ちゃんはほたるのために、貴重な時間を割いて会ってくれたもの。健ちゃん、実はね、ほたるが健ちゃんに会いたかったのは、どうしても伝えたいことがあったからなの」
「伝えたいこと?」
意外な言葉にいぶかしげな顔をする。
「うん。それじゃあ、今から言うね」
ほたるは一呼吸ほどの間を置くと、穏やかな口調でこう言った。
「健ちゃん。健ちゃんはまだまだこれからだよ」
「・・・!」
健は驚きのあまり、目を大きく見開いた。
「そして、ほたるもまだまだこれからだよ。だから、焦ることはないんだよ。だって、お互いまだ先が長いんだから。今は何もなくても、そのうち必ず健ちゃんのやりたいことがそのうち見つかるはずだよ。健ちゃんがサッカーと巡り合ったときと同じようにね」
と言ってほたるはにっこりと微笑んだ。
「ほたる・・・」
健はかすれた声で元恋人の名前を呼んだ。
このとき、健は己の心の迷いをほたるが見透かしていることに気づいた。
これはかつて恋人同士として、一緒に過ごしてきた経験によるものかもしれないと健は思った。
「それじゃあ、ほたるはもう行くね。バイバイ、健ちゃん。また会おうね」
ほたるは小さく手を振ったあと、背中を向けて歩き出した。
健は何か言おうと思ったが、結局言葉を紡ぐことができず、無言のまま、小さくなっていく彼女の後姿を見送った。やがて完全にほたるの姿が視界から消えると、橋の欄干に手を置き、はるか遠くの景色をぼんやりと眺めた。
「まだまだこれからか・・・」
健は静かに目を閉じた。
いつしか橋の上には、心地よい風が吹いていた。
風は流れる。ここからは見えないはるか彼方を目指して。決して留まることなく、様々な方向へ進む。ときには刹那の速さで。ときにはゆるやかな速さで。
それにひきかえ、健はこの風とは対照的に、ずっと止まったままだった。つらい過去の呪縛に捕らわれ、動けずにいる。
動けない理由は知っていた。しかし、解決する術を知らなかった。だが、ほたると再会し、あの一言により、一筋の光明を見出すことができた。
───そうだ、ぼくにはまだ時間がある。焦ることなんかないんだ。これから自分のしたいことをゆっくり探せばいいんだ。
健は静かに目を開いた。
目の前に広がる茜色の世界をじっと見据える。
その光景の先に何があるのかは分からない。それと同じで健の未来も分からない。確かめるには、少しずつ前に進むしかない。
今まで凍り付いていた健の時間が氷解し、ゆっくりと動き始める。
健は強い決意を秘め、新たな一歩を踏み出した。