Memorise Off2nd~Cross aubade~
朝方、智也が軽い朝食を済ませて顔を洗っている最中に、携帯電話の着信音が鳴り出した。
智也は慌ててタオルで顔を拭き、携帯電話を取った。
「もしもし」
「あ、おはよう、智ちゃん。よかった、起きていたんだね」
受話器越しに聞こえる声は、唯笑のものだった。
「ああ、今日は出かける予定があったから、早く起きたんだ。それで今日はどうしたんだ?」
「あのね、今度の日曜日に智ちゃんのところに遊びに行きたいんだけど、いい?」
「今週の日曜日ならいいぞ」
「よかったあ。それじゃあ、10時に桜峰駅で待ち合わせということでいい?」
「ああ、いいぞ」
「遅れたりしたら駄目だからね」
「分かってるって。おまえこそ遅れるなよ」
「大丈夫だよ。唯笑は智ちゃんと違って、寝坊なんてしないから。それじゃあ、またね」
唯笑はそう言って電話を切った。
───どうやら唯笑も元気になったみたいでよかった。
智也は携帯電話のディスプレイを見ながらそう思った。
藍ヶ丘町で唯笑と再会してから、頻繁に彼女から電話が入るようになった。
話題は「今日の夕食は何だった」とか「テレビでこんなものをやっていた」とか取り留めのないものばかりで、内容もカップラーメンが作れるぐらいの時間で終わるものばかりであった。
しかし、まだ話があるならいいほうで、なかには何も用件がないのに電話してくるなんてこともある。そのときは智也のほうが話題を提供して話を進めるので、意外とこちらのほうが長電話になることが多かったりする。唯笑は話すよりも聞くほうが上手なので、自然と話が長くなってしまうのだ。もっとも、智也が話術に長けているという理由もあるのだが。
智也は壁に貼ってあるカレンダーに唯笑との約束の日に印をつけた。
「これでよしっと」
智也は一度小さくうなずくと、机の上に置いてあった財布をポケットに入れ、部屋をあとにした。
鏡塚荘を出た智也の向かった先は海だった。
今日の海は雲ひとつない晴天に恵まれ、穏やかだった。風もたおやかで、優しく智也の肌を撫でる。
青一色に包まれ、いっそう白さが映える砂浜には、白いワンピースを身にまとい、同色のつばの広い帽子をかぶっているつばめの姿があった。
「つばめさん」
智也の呼びかけに反応し、つばめが振り返る。
「こんにちは、智也君」
「こんにちは、ずいぶん早く来たんだな。俺も早く来たつもりだったけど、先を越されたみたいだな」
智也は苦笑した。
「それでも智也君にしては早いほうね。私はもっと遅いかと思っていたわ」
つばめはそう言って智也に笑顔を送ると、体を海原のほうに向けた。
智也もその隣に並んで海を眺める。
「つばめさんは、いつも同じ海ばかり見ていてあきないか?」
「ええ、あきないわ。だって、ここは私の一番のお気に入りの場所だから」
「ああ、そうか。ここならつばめさんの好きな風をいつでも感じることができるもんな」
「それもあるけど、一番の理由は別にあるわ」
つばめが発した意外な言葉に、智也は目を丸くさせた。
「別の理由ってなんだ?」
「それはここが智也君と初めて出会った場所だということよ」
つばめははにかみながら答えた。
「つ、つばめさん」
彼女の意表を突いた答えに、智也は戸惑いの色を隠せなかった。
「ありがとう、智也君」
「どうしたんだよ、急に。俺は別にお礼を言われるようなことはしていないぞ」
続けざまに予期せぬ言葉を耳にし、智也の困惑に拍車がかかる。
「これは私のところに帰ってきてくれたことに対する感謝の気持ちよ。実は私、あなたに藍ヶ丘へ行くように言ったとき、本当は不安でたまらなかったの。このままもう二度と私のところに戻って来ないのじゃないかって。もっとも、今回の件は智也君自身が決めることだから、そうなってしまったらそれはそれで仕方ないと覚悟は決めていたけど、心の中ではこの桜峰に帰って来て欲しいと思っていたの。私は智也君を失いたくなかったから・・・でも、智也君はふたたび私のところに戻って来てくれた。私はそれがとても嬉しいの」
つばめは一瞬、寂しげな表情を浮かべたあと、すぐさま笑顔を見せた。
そのまぶしくて無邪気な笑みが智也の体を本能的に動かし、つばめの体を抱きしめさせた。
「つばめさん・・・俺は藍ヶ丘に向かうときにはもう決めていたんだ。俺はつばめさんのいる桜峰に残るって。だって、俺は空になってつばめさんを守るって約束したからな」
「ありがとう、智也君。私のもとに帰って来てくれて・・・」
つばめは智也の胸に頬をうずめた。
「お礼を言うのは俺のほうだ。もし、つばめさんがいなかったら、俺はずっと過去にとらわれ続けていた。いや、それだけじゃない。俺自身の身勝手な行動でつらくて悲しい思いをしていた唯笑を救うことができなかった。だから、俺はつばめさんと出会えて本当によかったと思っている。そして、つばめさんと出会わせてくれた神様に感謝している」
智也は心の中に秘めていた自らの思いを素直に述べた。
つばめと初めて出会ったときは、とにかく変わった女性だと思っていた。
しかし、それが何度か会うたびに、彼女の本来の姿を知ることができ、気がつけば恋に落ちていた。
つばめは明らかに彩花とは違うタイプの女性であった。しかし、何故か時間が経つにつれ、惹かれていった。
ひとを好きになることに理屈はいらない。ただ、その気持ちが芽生えたとき、感情の生き物たる人間の本能が働くのだと智也は思った。
そうでなければ、前の恋人とはまったく異なる女性に対し、恋慕の情を抱くことなどできないからだ。
智也は彩花のことを愛していた。そして、つばめを同じくらい愛している。これが今の智也の偽りのない気持ちだった。
「私は今まで神様なんて信じていなかったけど、今なら信じることができるわ。だって、こうして智也君と出会うことができたから・・・」
つばめは智也の背中に両腕を回して顔を上げた。
つばめの潤んだ熱っぽいまなざしに智也は釘付けとなった。
どうしようもないくらいの愛しさが溢れ出す。
「つばめさん・・・俺はつばめさんを愛している・・・そして、これからもずっとつばめさんを愛していたい・・・」
「私も智也君のことを愛しているわ・・・いつまでもずっと・・・」
ふたりは、お互いの胸のうちを吐露すると、ゆっくりと顔を近づけ、唇を重ねた。
つばめから漂う檸檬の香りと密着した体に伝わる柔らかい感触が、智也に狂おしいほどの愛情を抱かせる。
智也は激情の赴くまま、つばめの体を力いっぱい抱きしめた。
つばめは智也の閉じた唇を舌でこじ開けた。たちまち檸檬の香りと味が智也の口の中に広がっていく。
智也は温かくて湿ったその舌に自分の舌を絡めた。口の中が急速に熱を帯び、心臓が早鐘を打ち出した。
それと同時に、つばめの胸の鼓動がふたつの柔らかいふくらみを通して伝わってきた。
智也はつばめを、つばめは智也を、それぞれ愛するひとの存在を全身で確かめ合っていた。
そして、ひとを愛するということの温かさと激しさを感じていた。
智也とつばめは、永久の愛を願いながら長い口づけを交わした。