Memorise Off2nd~Cross aubade~

第8章 空と海

桜峰町に登波離橋という名の大橋がある。
町内を流れる嘉神川に架かっているこの橋は、風光明媚な場所で、特に夕焼けが素晴らしいといわれている。
そんな登波離橋のまわりは、鮮やかなオレンジ色一色に染まっており、まさに絶景と呼ぶに相応しい情景を映し出していた。
つばめに誘われて登波離橋にやって来た智也は、あまりの素晴らしさに深い感嘆のため息をついた。
「へえ、登波離橋でこんな綺麗な夕焼けが見られるなんて今まで知らなかったな」
「確かに夕焼けもいいと思うけど、私はそれよりもここを流れる風のほうが素晴らしいと思うわ」
つばめは風に乗って踊る髪を手で押さえながら言った。その答えを聞いた智也は思わず苦笑をもらした。
「つばめさんは本当に風が好きなんだな」
「ええ。だって、風は私にないものを持っているから」
「つばめさんにないものって、いったい何なんだ?」
「自由よ」
「自由?」
智也がいぶかしげな表情を見せる。
「そう、自由よ。私はあの男───南朱雀によって、小さい頃からずっと自由のない生活を強要されたの。自分のやりたいことはいっさい許されず、ただあの男の言うことだけに従わされる生活・・・それはまさに囚人同様の生活だったわ。だから、私はあの男の束縛から逃れて自由を手にいれるために、家を飛び出したの。でも、結局は駄目だった・・・自由を手に入れることはできなかった・・・」
つばめは西に傾く太陽をじっと見据えた。
彼女の漆黒の瞳には深い悲しみと絶望が宿っていた。
かごの中の鳥が大空を求めることと同じように、つばめは父親からの解放を渇望していた。
しかし、父親の束縛から逃れられることができず、いつしかあきらめにも似た感情を抱き、現在に至っている。
茜色に染まるつばめの横顔に見入っていた智也は知った。
彼女が飛ぶことのできない幼い燕であることを。
飛べない燕だから、自由という空を知ることができない。
それならば・・・
このとき、智也の口から新たに芽生えた思いがこぼれた。
「俺が空になってやるよ・・・」
「え?」
つばめは短い驚きの声を上げた。
「俺が空になって、つばめさんに自由を与えてやるよ。つばめさんが望んでいる自由な世界を俺が作ってやるよ」
つばめは智也の顔をじっと見つめた。智也もつばめの顔を見つめる。やがて、つばめがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、智也君」
初めて見たつばめの微笑みに、智也の胸が高鳴りだした。
年上の女性に対して失礼な言葉かもしれないが、率直に可愛いと思った。
「どうしたの?私の顔をじっと見つめて」
「あ、いや、その、つばめさんって笑うと可愛いなと思っただけさ」
智也は慌てて答えたが、すぐにその言葉が正直すぎたことに気づき、気恥ずかしさを覚えた。
「そ、そう・・・そんなこと言われたのは初めてだわ」
つばめは顔をほんのりと赤らめながら、困惑の表情を浮かべた。
そこには、今までのつばめには見られなかった感情の変化というものが存在していた。
智也はそんなつばめを見て、これが彼女の本当の姿なのだと実感した。
「それじゃあ、今度は智也君の番ね」
突然、つばめが真顔に戻り、智也に話しかけた。
「え、俺の番って何が?」
いきなりの発言に、智也は思わず間の抜けた声を出した。
「智也君が私の質問に答える番ってことよ」
「質問って、いったい何が聞きたいんだ?」
「そうね、智也君がこの桜峰に来た理由が知りたいわ」
「この町に来た理由か・・・」
つばめの言葉に、智也はしばしのあいだ黙り込んだ。
「言いにくいのなら、無理して言わなくてもいいわ」
すかさずつばめがフォローを入れる。
「いや、話すよ。つばめさんには知ってもらいたいと思うから・・・」
智也は小さく首を横に振ると、嘉神川を見下ろしながらぽつりぽつりと語り始めた。
「俺は隣の藍ヶ丘町に住んでいた頃、桧月彩花という幼なじみと付き合っていたんだ。このときはとても幸せだった。だけど、彩花が突然の交通事故で俺の前からいなくなって、俺の幸せな日々は絶望に変わった。事故といっても、俺が殺してしまったようなものだ。俺が彩花を電話で呼び出さなければ、事故に遭うことはなかったからな」
智也の両手の握りこぶしが小刻みに震える。
そう、灰色の空から大粒の雨が降りしきるあの日、彩花に傘を持って来てもらおうとしなければよかったのだ。そうすれば、彼女がトラックに跳ねられることは必然的に避けられたのだから・・・
自責と後悔の念が智也の胸に去来する。
「それから、俺はいつも彩花のことばかり考えるようになってしまった。それはとてもつらくて苦しくて悲しかった。だから、俺はその苦しさから逃れたいと思って、高校を卒業してすぐ彩花の思い出が眠る藍ヶ丘町を離れ、この桜峰町にやって来たんだ。でも、結局は駄目だった。どんなに忘れようとしても、忘れることができなかった・・・」
すべてを話し終えた智也は、顔をゆっくりとつばめのほうに向けた。
「智也君・・・」
つばめは、智也のそばに寄ると、いきなり口づけをした。柔らかい感触のあとに、檸檬の香りが口中に広がる。
あまりにも急な出来事に、智也は呆然となった。
「智也君は何も悪くないわ。事故は智也君のせいではないのだから・・・」
「つばめさん・・・」
つばめの瞳に釘付けとなる。
「智也君、あなたが私の空になると言うなら、私はあなたの海になるわ。そして、あなたの心の傷を癒してあげる」
つばめはそう言うと、白い両腕を智也の後頭部に回し、自分の胸に引き寄せた。
檸檬の香りと柔らかくて温かい感触が心地よかった。
智也はつばめの胸の中で静かに目を閉じた。
言葉にできないほどの安心感が広がっていく。
いつしか先ほどまで吹いていた風がぴたりとやんでいた。
登離波橋に夕凪の時が訪れ、辺りは静まり返っていた。
智也とつばめは夕映えの中で、お互いの存在を確かめ合うようにいつまでも抱き合った。