Memorise Off2nd~Cross aubade~

第7章 大人の仮面・少女の素顔

智也は今日も海に向かう。南つばめという不思議な女性と会うために。
初めてつばめと出会ってからというもの、智也は毎朝決まった時間に海へ訪れた。
また、そんな彼を待っていたかのように、つばめもそこに佇んでいた。
まるで海風に導かれるような出会いを繰り返す智也とつばめ。
そんなふたりの過ごす時間は、とにかく変わっていた。
いつも会っているにも関わらず、会話がほとんどなく、ただ黙って海を見ているだけという日が多いからだ。
しかし、そのわずかな会話から智也は、少しだけつばめのことを知ることができた。
ひとつは風を見たり、その肌で感じたりすることが好きだということ。そして、同じくらい檸檬が好きだということである。
それを知って、やっぱり変わった女性だと智也は改めて認識した。
───でも、なんで俺はこんなにつばめさんに会いたいと思うんだ?
海岸へ向かう道中で、智也はふと思った。
やはり、異性として特別な感情を抱いているからなのだろうか。これが最初に考えついた答えだったが、智也はすぐに否定した。
なぜなら、彩花と付き合っていたときと同じような気持ちになっていないからである。
それでは何故、足しげく海に行くのだろうか。
智也は疑問に対する答えを模索した。
南つばめという女性が気になるからというのが、今の智也に出せる精一杯の答えだった。
しかし、そうなる理由については、まったく分からなかった。
考え事をしながら歩いているうちに、いつもの海岸にたどり着いた智也は、今日も普段と同じ時間をつばめと過ごすものだと思っていた。
ところが、この日は違う朝の始まりだった。
「いや、放して!」
女性の悲鳴が風と潮騒の音に混じって、智也の耳に飛び込んできた。
そのとき、智也が目にしたのは、スーツ姿の男性に腕を捕まれているつばめの姿だった。
「つばめさん!」
つばめの身に起こっている窮地を知った智也は、白い砂を巻き上げながら全力で駆け出した。
「智也君!助けて!」
つばめの救いを求める声に、智也の走るスピードが否応なしにあがる。
「おい、おまえ、つばめさんから手を放せ!」
智也は、ふたりの間に割って入ると、つばめの華奢な腕をつかんでいる男の手を、力ずくで引き離した。
「貴様、赤の他人の分際で私の邪魔をするな!」
「なんだと!そう言うおまえだって、赤の他人だろ!」
智也の激しい反論に対し、男は不敵な笑みを浮かべた。
「私の名は南朱雀。ここにいる南つばめの父親だ。したがって、おまえと違い赤の他人などではない」
「なっ・・・!」
思わぬ答えが返ってきたことにより、鼻白む智也。
そのときに生まれた隙をついて、つばめの父親と名乗る男は、ふたたびつばめの右腕をつかんだ。
「さあ、つばめ。私と一緒に来るんだ!」
「いや!放して!」
つばめは悲痛な声を上げると、自由の利く左手を懸命に伸ばし、智也のシャツを握り締めた。
その瞬間、智也とつばめの視線が重なり合う。
すがるような彼女のまなざしに、智也はどうしようもないくらいの激情にかられた。
「うおおおっ!」
智也は猛然と前に出ると、朱雀の顔を殴りつけた。
渾身の一撃をもらった朱雀は、たまらず砂浜に倒れ込んだ。
「一刻も早くここから消え去れ!そして、2度とつばめさんに近づくな!」
智也はつばめの前で仁王立ちとなり、見下ろすように睨みつけた。
「くっ・・・今日のところはこれで引き上げてやる。だが、私は決してあきらめた訳じゃない。次は必ずつばめを連れ戻してやる」
朱雀は両手をついて立ち上がると、捨て台詞を吐いてその場から立ち去った。
「つばめさん、もう大丈夫だ」
智也は朱雀の姿が完全になくなったことを確認し終わると、後ろを向いてつばめに声をかけた。
その刹那、智也は驚きの表情をあらわにした。
つばめはその場にしゃがみこんでガタガタと震えていた。
いつもの毅然とした態度は、微塵も感じられない。その姿は、まるで幼い少女のようだった。
───これがあのつばめさんなのか・・・
智也は、思わず我が目を疑った。あまりの変わりように別人ではないかという錯覚すら覚える。しかし、眼前でひたすら震えている大人の女性は、間違いなく南つばめ本人であった。
ただし、智也がよく知っている南つばめではないというのも事実だった。
そこにいるのは『大人』の南つばめではなく、『少女』の南つばめだった。
大人の顔と少女の顔。
どちらが真実でどちらが偽りなのか。
きっと今さらけ出している少女の顔こそが真実なのだと智也は思った。
そう思う根拠はない。だが、何故かその判断に誤りはないという強い確信があった。
「つばめさん・・・」
智也はその場にしゃがみ込むと、そっとつばめの肩に手を置いた。
すると、つばめは一瞬、体を大きく震わせたが、すぐに智也の右腕にしがみついた。
「もう大丈夫・・・大丈夫だから・・・」
智也は、つばめの艶やかな髪を優しく何度も撫でた。
つばめから漂う檸檬の匂いが、かすかな甘いときめきを与える。
やがてそのときめきは、智也の心に大きな変化をもたらした。
どんなことをしてでも、守ってあげたい───
いつしか、かつて彩花に対して抱いた感情が、ふたたび芽生え始めていた。
それから数分後に、ようやくつばめが落ち着きを取り戻した。
「あ、ありがとう・・・」
つばめは、ぎこちない動きで智也から離れた。
「つばめさん、もしよかったら家まで送って行くよ」
「ありがとう。でも、大丈夫、私ひとりで帰れるから・・・あ・・・」
そう言って歩き出そうとしたつばめは、砂に足を取られてよろめいた。
「あ、危ない!」
とっさに智也が駆け寄って、つばめを支える。どうやら、つばめの精神的なダメージは思った以上に大きく、それが体調に影響しているようだった。
「やっぱり送って行くよ。万が一、途中で倒れたりなんかしたら大変だからな」
「ごめんなさい・・・」
つばめが申し訳なさそうに謝る。
「つばめさんが謝ることはないさ。それじゃあ、またあの朱雀という奴が来るかもしれないから、早く行こうぜ」
「ええ・・・」
つばめは小さくうなずくと、智也の腕に寄り添うような姿勢を取った。
つばめの案内を受けながら歩いて行くと、やがて古ぼけたアパートにたどり着いた。
そのアパートは、智也が住んでいる「鏡塚荘」に勝るとも劣らないほどの造りで、お世辞にも綺麗な建物とはいえなかった。
自分のアパートが桜峰で一番小汚いアパートと思っていた智也は、同じ町内に同格の建物が存在していたことに、少なからず驚きの念を抱いた。
これも昔ながらの古風な建物が多い桜峰町ならではのことだろう。
「ここがつばめさんの住んでいるところなのか?」
思わず半信半疑になって尋ねる。
いくら大人といえど、女性が住む所としては、どうも場違いな気がしてならなかったからである。
しかし、そんな智也の疑問を消すかのようにつばめが小さくうなずいた。
「そう・・・ここが私の唯一の居場所『朝凪荘』よ」
「唯一の居場所?」
「そう・・・」
つばめは短い同意の答えを返すと、口をつぐんだ。
その様子を見た智也は、それ以上の質問を控え、つばめと一緒に入口の門をくぐった。
すると、どこからともなく漂っていた檸檬の芳香が智也の鼻をくすぐり、清々しい爽快感をもたらした。
アパートは「鏡塚荘」に匹敵するほどの小汚さであったが、周囲の空気は驚くほど澄んでいた。
智也がアパートの正面玄関の前に足を踏み入れたそのとき、突然、左手の方向から一匹の子犬が姿を現し、吠えながらじゃれついてきた。
「なんだ、この犬は・・・」
智也が子犬を見下ろしていたそのとき───
「こら、トモヤ!むやみに他所様の足にじゃれつくなって、いつも言ってるだろ」
突然の背後からの声に、ひとりと一匹は同時に振り返った。
「お、おまえは・・・!」
後ろにいた人物を見て、智也は絶句した。
一方、相手のほうも驚きのあまり、口を半開きにして固まっていた。
「そ、そこにいるのは智也・・・なのか?」
「信・・・なのか?」
ここで沈黙がゆっくりと辺りを包み込んだ。
運命とはこうも衝撃的なものなのだろうか。
あまりにも唐突に訪れた再会に、智也も信も言葉を失い、呆然と立ち尽くしていた。
「ふたりとも、知り合いなの?」
そんなふたりにつばめが声をかけた。
「ええ、智也とは高校時代からの親友なんです。でも、まさかこんな形で再会できるなんて思いませんでしたよ」
「それは俺も同じだ。つばめさんが住んでいるアパートにおまえもいるとは思わなかったぜ」
それをきっかけに、沈黙のカーテンは破られた。
「ところで、智也。おまえと南さんはどういう知り合いなんだ?それにどうしてこの町にいるんだ?」
「信、詳しい話はあとでするから、とりあえずつばめさんを部屋まで連れて行かせてくれ。つばめさん、体の調子を崩してしまったようだから、部屋で休ませたいんだ」
「智也君、私ならもう大丈夫よ。ここからは私ひとりで戻れるわ」
つばめはそう言うと、ゆっくりと智也の腕から離れた。
「つばめさん、本当に大丈夫ですか?」
「ええ。智也君、今日は本当にありがとう。それじゃあ、私はこれで失礼するわね」
つばめは、いつもの表情で礼を言うと、おぼつかない足取りで朝凪荘の中に入った。
「さてと、立ち話もなんだから、俺の部屋に来ないか?積もる話もあるだろうしさ」
信が智也に向かって笑いかけた。その笑顔は、まぎれもなく2年前、智也と同じ学校生活を送っていた親友の笑顔だった。
「そうだな。せっかくだから寄らせてもらうことにするよ」
智也の顔にも久しぶりの笑顔が宿った。
信の部屋は6畳1間の空間で、いかにも男の部屋といった感じで、いろんなものが適度に散らかっていた。
「信、少しは掃除くらいしろよ」
「まあ、細かいことは気にするな。それより、飲み物はコーラでいいか?」
「ああ、おまえにまかせる」
「OK。それじゃあ、適当なところに座ってくれ」
智也は、辺りを見回し、物が置いていないスペースを見つけると、そこに腰を降ろした。
「いやあ、こうしておまえと会うのも久しぶりだよな。最後に会ったのはいつだっけ?」
信はコーラの入ったコップを持って戻ると、そのうちのひとつを智也に渡し、向き合うような場所に座った。
「そうだな、俺もよく覚えていないけど、2年以上前だと思うぜ」
「そうか・・・そんなに昔なんだな」
信は目を細めた。
「それじゃあ、さっきの続きをしようぜ」
「続きって?」
「玄関前での話の続きに決まっているだろ」
「ちょっと待った。そのまえに俺の質問に答えてくれ。なんで、おまえは学校を辞めたんだ?」
智也が信を制して、会話のイニシアティブを取った。
後手を踏む形となった信は、思わず苦笑いを浮かべた。
「ずるい奴だな。まあいい、それでは先に俺から質問に答えてあげよう。俺が退学した理由は・・・」
信はコーラを口に含んで間を取った。
「理由は?」
間合いに耐えきれず、せかす智也。
「そう慌てるなよ。理由はだな・・・インドを目指すためだ」
「はあ?」
智也は思わず間の抜けた返事を返した。
「おいおい、ふざけるのもいい加減にしろよ。俺は真面目に尋ねているんだぞ」
少し怒ったような表情で親友を見る。それとは対照的に、信は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「俺は大真面目だぞ。俺はここでバイトをしてお金を貯めてインドへ行き、空飛ぶ魚を探すんだ。どうだ、すごいだろ」
「すごいというかなんというか・・・」
智也はこの発言ですっかり怒気を抜かれてしまい、深いため息をついた。
「さあ、今度は俺の番だな。智也、しっかりと質問に答えてくれ」
ここで会話の主導権が信に移った。
「なんかおまえのほうがずるくないか。どう考えても、本当のことを言っていないとしか思えないのだが・・・」
「いいや、これがおまえの知りたがっていたことのすべてだ。俺がこの桜峰にいるのは、インドへの熱い情熱があるからだ。それ以外の答えなど断じてない!」
疑惑のまなざしを向ける智也に対し、信がきっぱりと言い放つ。
「というわけで、まずは南さんとどこでどう知り合ったかを教えてくれ」
屈託ない笑みで、反論の余地を断ち切った。見事な立ち回りであった。
学生時代は無茶苦茶な理論で智也が信を言い負かしていたのに、それが一方的に押され気味に話を進められてしまった。
これも学校を辞めて、いち早く厳しい社会に出た経験の差なのかもしれない。
歳月の流れを改めて感じさせられる一幕だった。
「つばめさんとはすぐそこの海岸で偶然出会って、知り合いになったんだ。俺もあのひともよく海に行くから、何度も会うんだ」
「なるほど。智也がナンパして知り合ったわけじゃないんだ」
「おいおい、おまえと一緒にするなよ。だいたい、そんなことしても、つばめさんが相手じゃ軽くあしらわれるだけだろ」
「違いない」
信が乾いた笑いで同意を示す。
「それではもうひとつの質問に答えてくれ。どうして桜峰にいるかって質問だぞ」
「それは・・・」
智也は表情を曇らせ、言葉を濁した。
「どうした?」
いち早く智也の異変に気付き、信が声をかける。
「すまない、信。その質問には答えられない・・・」
智也は目を伏せたまま、かすれるような声でそう答えた。
「・・・分かった・・・」
「すまない」
「謝るのは俺のほうさ。無神経な質問をして悪かったな」
信は首を横に振ると、穏やかなまなざしを智也に向けた。
智也はそんな親友の気配りに深く感謝した。
「あ、智也、これだけは教えてくれないか。おまえがここにいることを唯笑ちゃんは知っているのか?」
信の言葉に智也は無言のまま、首を横に振った。
「そうか・・・」
今度は信が深いため息をついた。その表情には何かを考えているような気配が漂っていた。
「信、俺が桜峰にいることは、唯笑や昔のクラスメートには言わないでくれ。頼む」
智也は真剣な面持ちで、信の目をまっすぐ見据えた。
「分かってるよ。何か大きな事情があるようだから、余計なことはしないつもりだ」
「すまない」
「何度も謝るなよ。俺とおまえの仲じゃないか。それじゃあ、せっかくだから、ふたりの再会を祝して乾杯しようぜ。あ、もしビールがよければ、今から買ってくるぞ」
信は明るい口調と屈託のない笑顔で、その場の雰囲気を和らげようとした。
そこには変わらない親友の優しさがあった。
智也は信と親友であることが何よりも嬉しかった。
「ビールじゃなくていい。というか俺たちはまだ未成年だろ」
「まあ、それもそうだな。じゃあ、これで乾杯だ」
信は目に前に置いてあるコーラの入ったコップを持った。智也も同じようにコップを手にする。
「それじゃあ、ふたりの2年ぶりの再会を祝して乾杯!」
信の号令と同時に、コップが触れ合う音が鳴り、ふたりは一気にコーラを飲み干した。
「なあ、智也。今日は今かバイトがあるから無理だけど、近いうちにメシでも食いに行こうぜ」
「そうだな。そのときは信のおごりでいい店を紹介してくれ。さっきお金を貯めているとか言っていたから、俺よりも金は持っているだろ」
「馬鹿言うな。今月は家賃が払えるかどうか危ないんだ。だから、智也のおごりということで、パーッと行こうぜ」
「自分で誘っておきながら、ひとにおごらそうとするとはなんて奴だ」
「今は誘われたほうがおごるのが礼儀なんだぜ」
「そんな礼儀などあるものか!」
「ハハハ、それが稲穂流の礼儀なんだよ」
「三上流の礼儀は、俺以外の人間がおごるようになっているんだよ」
ふたりは、そこまで話し終わると、急に笑い出した。
笑い声は次第に大きくなり、6畳の部屋に響き渡った。
智也は、変わらない友情を感じながら、久しぶりに楽しいひとときを過ごした。