Memorise Off2nd~Cross aubade~

第6章 生命の価値

公園の一角で軒を連ねている木々が青々と生い茂っている。
智也はそんな並木道を所在なさげにぶらぶらと歩いていた。
ここに来た理由は特にない。ただ、単に足を運んだだけだった。
智也がこの道をあてもなく歩いていると、やがて小さな花壇の前にたどり着いた。
花壇には色取り取りの花が咲き乱れ、そのそばではショートカットの女の子がスケッチをしていた。
「うっ・・・」
智也がその付近を通りかかった瞬間、突然、そのショートカットの少女が苦しみ出した。
「お、おい、大丈夫か!?」
智也は急いで少女に駆け寄った。
「だ、大丈夫です・・・くっ・・・」
と答えた少女の顔には、苦悶の表情がありありと浮かんでいる。
その言葉が真実でないのは一目瞭然だった。
「そんなに苦しそうにしていて、大丈夫ってことはないだろ。やっぱり、ここは救急車を呼ぶのが一番早いな」
すばやく決断を下した智也の腕を少女がつかんだ。
「ま、待ってください・・・救急車は必要ありません・・・少し休めば、すぐよくなりますから・・・」
「本当に大丈夫なのか?」
「はい・・・」
「そうか。それなら、あのベンチまで連れて行ってやるよ」
智也は少女の体を肩で支えると、すぐそばにあった白いベンチのところまで歩いた。
「すみません・・・」
少女は申し訳ななそうに謝ると、もたれかかるようにベンチに座った。
やはり病院に行ったほうがよかったのではないかと、一抹の不安を抱えたまま、智也は隣に座って、少女の様子をうかがった。
初めのうちは苦しそうにしていた少女であったが、時が経つにつれ、乱れた呼吸も整い始め、落ち着きを取り戻した。
どうやら、少女の言っていたことは虚勢ではなく、真実だったことが判明し、智也の心配は杞憂に終わった。
「あの、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
やがて少女はうっすらと目を開け、お礼の言葉を述べた。
「いや、気にすることはない。俺は当然のことをしただけだ」
智也は少女が立ち上がろうとするのを制した。
いくら回復したと言っても、まだ顔色そのものがよくなかったからである。
「すみません・・・」
今度は謝罪の言葉を口にする。それから、しばらくのあいだ、ふたりは何も話さなかったが、やがて意外な言葉が少女の口からこぼれた。
「・・・やっぱり私は駄目ですね・・・」
その瞬間、智也の視線が少女の横顔に釘つけとなった。
「こんな体になったせいで、私は何もすることができない・・・好きな絵も満足に描くことすらできない・・・こんな私はやっぱり生きる価値なんてないですよね・・・」
消え入りそうな声で自分自身を否定する。
智也はうつむいている少女を見据えたまま、口を開いた。
「生きる価値がないなんて、誰が言ったんだ?」
少女は驚きをあらわにして、顔を上げた。
「そ、それは・・・」
言葉を詰まらせる。
「自分で勝手に決めつけるのはよくないぜ。この世界には、生きたくても生きることのできない人間だっているんだから」
そう言った智也は、今は亡き恋人───桧月彩花のことを思い出した。
ふたりで一緒に過ごした日々。
楽しかったその時間は、お互いが望むかぎり、ずっと続くと思っていた。
しかし、死という冷酷な運命が彩花をさらったことにより、永劫の離別が訪れた。
あまりにも唐突で無情な結末に、智也は成す術がなかった。
引き裂かれた思い。
崩れ去った幸せな日常。
大切なものは次々と失われ、あとに残ったのは絶望と後悔だけだった。
───もし、あのとき俺が・・・
智也の頭の中で彩花の死を避けるさまざまな事象が浮かぶ。
彩花を呼び出さなければ・・・
傘を持って行っていれば・・・
走って家まで帰っていれば・・・
目まぐるしいほど、過去に起こせた行動が脳裏によぎり、そのたびに、激しい自責の念にかられた。
智也は、針を刺すような胸の痛みに耐えながら話を続けた。
「たとえ何もできなくても、生きてさえいれば、それだけで十分だと俺は思うぜ。ひとの死ほどつらくて悲しいものはないからな」
これが大切な恋人を失ってから、痛感した気持ちだった。
「・・・確かにあなたの言うとおりですね・・・すみません、いきなり変なことを言ってしまって・・・」
少女は申し訳なさそうな顔をして謝った。
それから何の会話もなく、数分の時が流れ、少女がゆっくり立ち上がった。
「私、そろそろ帰ります。いろいろとご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「本当に大丈夫なのか?もし、よかったら家まで送るけど」
「あ、ほんとにもう平気です」
かすかな笑みをもらして答える。
「そうか。それじゃあ、気をつけてな」
「はい、失礼します」
少女は会釈をすると、足早に立ち去った。
智也は少女の姿が完全に消えるまで見送ったあと、腕時計に目をやった。
「家に戻るには少し早いな」
このまま、帰ってもすることはないので、智也はとりあえず歩くことにした。


公園を離れ、智也が次に向かった場所は毎朝訪れている海だった。
───俺って、ここが本当にお気に入りになったみたいだな。
公園からかなりの距離があったにも関わらず、わざわざここを選んでしまった自分自身に対し、智也は心の中で苦笑した。
そして、そこには面識のある女性が立っていた。
「あれはつばめさんじゃないか」
智也はつばめのもとに歩み寄った。すると、つばめがこちらに顔を向けた。
「あら、智也君。こんにちは」
相変わらずのポーカーフェイスで、つばめが挨拶をしてきた。
「こんにちは、つばめさん。また風を見ていたのか?」
「ええ、そうよ」
つばめはそう答えると、ふたたび顔を正面に向けた。
智也はその隣に並び、彼女と同じ景色を眺めた。
しばしの間、風と波の音がふたりのまわりを包み込む。
やがて、ふたつの音に加わるような形で、つばめが話し掛けてきた。
「ねえ、智也君に聞きたいことがあるけど、いいかしら?」
「なんだい?」
「智也君は死を選ぼうとしたことはある?」
「これまた、意表をつく質問だな。どうして、そんなこと聞くんだ?」
「なんとなく聞いてみたかっただけよ。もちろん、答えたくなければ、答えなくていいわ」
つばめが抑揚感のない口調で答える。
「この桜峰に来るまでに、何度もあったな。そういうつばめさんはどうなんだい?」
「私も智也君と同じよ」
このとき、智也はつばめの顔に、今まで見たことのなかった表情が浮かんでいたことに気づいた。
それは悲しみという感情であった。しかし、感情を見せたのはほんの一瞬で、すぐもとの無感情な顔に戻っていた。
「ねえ、智也君。どうして私たちは死を選ばなかったのかしら?何故、生に執着しているのかしら?」
つばめの顔に、またしても刹那の感情が走ったのを、智也は見逃さなかった。
それは悲哀と苦悩が混ざり合ったような感じの複雑な表情だった。
智也は無言のまま、つばめの横顔を見つめた。
ひとは生きているあいだに、さまざまな喜び、楽しみ、悲しみ、苦しみを経験する。
そして、その経験は決してそのうちのどれかひとつでも欠けることはない。多少の誤差はあるかもしれないが、生きている以上、必ずすべての事象をまんべんなく経験することになる。
ただし、それらの事象の持つ影響力は異なり、仮に同じくらい体験したとしても、喜びや楽しみよりも悲しみや苦しみのほうがはるかに大きい。
なぜなら、ひとの心は当人たちが思っている以上に強くないため、喜びや楽しみよりも、悲しみや苦しみに捕われやすい傾向にあるからだ。
智也が彩花を失った悲しみを未だに引きずっていることが、その象徴的な例だといえよう。
そして、そんな苦しみや悲しみから逃れるために、死という結末の甘美な誘いに惑わされることもある。
確かにその選択を選べば、現実世界での悲しみや苦しみから解放される。だが、ひとはその選択を簡単に選ぶことができない。ひとは無意識のうちに死を恐れ、悲しみや苦しみの解放よりもそれらの受容を選ぶ。
生への固執───それこそひとが生まれ持った本能であり、悲しみや苦しみに耐える力の源なのかもしれない。
「つばめさん・・・」
智也は疑問に答える前に、何故かつばめの手を握ってしまった。
「あ・・・」
突然の出来事に驚くつばめ。
それに対し、智也も自分の取った行動に戸惑いの色を隠せなかった。
───何故、俺はつばめさんの手を握ったりしたんだ?
その疑問に対する答えは見当たらない。
もちろん、理由などない。ただ、自分でも気がつかないうちに、つばめの手を握ってしまったのだ。
「ご、ごめん!」
智也は慌てて手を離そうとしたが、そうすることができなかった。
つばめが智也の手を握り返したからである。
「つ、つばめさん・・・?」
今度は智也が驚く番だった。
「智也君の手は、とても温かいのね」
つばめは智也の顔を見ながらそう言うと、ふたたび視線をもとに戻した。
───俺もつばめさんも何をやっているんだろ・・・
そう思わずにはいられなかった。
しかし、左手に伝わる柔らかな感触と温かさのおかげで、つばめの存在を身近に感じることができたので、気分は悪くなかった。
智也とつばめは日が暮れるまで、その場に立ち尽くした。