Memorise Off2nd~Cross aubade~

第5章 わずかな可能性を信じて

オーブンから取り出されたアップルパイから香ばしい香りが漂い、白河家の台所に広がる。
静流は出来たてのアップルパイを大きな皿に載せると、オレンジジュースの入ったコップと一緒にお盆の上に置いた。
「うまくできているといいんだけど・・・」
静流はお盆を両手で抱えると、キッチンを離れ、リビングに向かった。
「お待たせ、ととちゃん」
静流は中に入ると、ソファーに座っているショートカットの少女に声をかけた。
「わあ、それはアップルパイですね。私、静流さんのお菓子が大好きなんで、すごく嬉しいです」
ショートカットの少女───飛世巴はそう言って、とびっきりの笑顔を浮かべた。それを見て静流の顔も自然とほころぶ。
「ウフフ、そう言ってもらえるとすごく嬉しいわ。でも、これはまだ試作品だから、あまり期待しないでね」
「それは無理ですよ。だって、静流さんが作ったパイですから」
「もう、ととちゃんったら・・・」
静流は照れ笑いを浮かべると、アップルパイとオレンジジュースをテーブルの上に置いて、巴の反対側のソファに腰掛けた。
「さあ、どうぞ召し上がれ」
「はい、いっただきまーす」
静流の合図と同時に、巴はパイをひときれつまんで口に入れた。ほどよい甘酸っぱさが口中に広がる。静流の作るお菓子の最大の魅力はなんといっても、絶妙なバランスをもたらしている味付けだった。これに関してはどんなお菓子を作っても、まったく変わることがなかった。
両親が共働きという家庭環境のおかげで、巴は家事全般が得意だったが、お菓子作りに関しては静流の足もとに及ばないと、差し出されたお菓子類をご馳走になるたび、痛感させられた。
そこで、まだほたるが桜峰にいた頃に、巴は何度か静流にお菓子の作り方を教わったが、それでも彼女のようにはうまく作れなかった。
材料も手順もそっくり真似て作っても、できたものは静流のお菓子と比べると、雲泥の差だった。
何が足りないのか、何が違うのか、巴は真剣に悩んだ。
ところが、ある日、一緒に遊んでいたほたるの何気ないひと言が答えとなった。
「お姉ちゃんのお菓子には、お姉ちゃんしか使えない魔法がかかっているんだよ」
これを聞いた巴は、最初あっけにとられたが、自然と納得することができた。静流の作るお菓子が魔法のお菓子というたとえに、共感を覚えたからである。現実にはあり得ない話なのだが、何故かそう考えてしまうのは、きっと静流のお菓子を実際に味わっていたからだろう。
静流しか使えない魔法が生み出した魔法のお菓子・・・それは数年という時が過ぎた今でも健在していた。
「どう?」
「文句のつけようがないくらいにおいしいですよ、静流さん!」
巴が満面の笑みで答える。その瞬間、静流の顔から安堵の笑みがこぼれた。
「よかった。私、ちょっと甘いかなって思っていたんだけど、どうやら大丈夫みたいね。これならほたるが戻ったときに出すことができるわ」
「まったく問題ないですよ。それに、ほわちゃんは甘いものが好きだから、少し甘いほうがかえっていいかもしれませんよ」
「そうね。じゃあ、今回作ったアップルパイは、ととちゃんがちょうどいいって言う甘さだから、次はほたるのことを考えて、もう少し甘くしてみるわね」
静流はそう言って、自分のコップに入ったオレンジジュースを少し飲んだ。
「そういえば、このあいだ、行方不明になっていたイナの居場所が分かるかもしれないって静流さん、言ってましたけど、あれってどうなったんですか?」
「そのことなんだけど、実は私の大学の友人が藍ヶ丘町で、その友人の知り合いの女の子と一緒に雨宿りしている健君を偶然、見かけたらしいの。でもね・・・」
会話の途中で静流は眉をひそめながら、言葉を濁した。
「このあと、友人がその知り合いの女の子に健君のことを尋ねてくれたんだけど、むこうも公園で偶然会っただけで、住所や連絡先は何も知らなかったの」
「あらら、それじゃあ、結局、イナの足取りは依然としてつかめていないんですね」
「そうなのよ。ほたるが日本に戻って来る日まであとわずかというのに、肝心の健君の居所が分からなくて、もうどうしていいのか困っているのよ」
と答えて大きなため息をつく。
せっかく得た手がかりが、こうも簡単に消えてしまうとは考えていなかったので、そのことを聞かされたときのショックと困惑は大きかった。
このままでは、妹の希望を叶えることができないので、なんとしても健を探し出したい。
しかし、健に関する情報がまったくなかったので、探し出す術が見当たらなかった。
こんなことになるなら、もっと早い段階で彼のことを気に留めていればと思ったが、もう時すでに遅し。後悔先立たずとはまさにこのことであった。
「静流さん、その静流さんの友人がイナを藍ヶ丘で見かけたってことは、そこにいるんじゃないですか?」
「確かにその可能性はあると思うけど、必ずしもそうとは言い切れないわ」
静流は巴の言葉に対し、弱々しく否定的な答えを返した。
「そうかもしれませんけど、わずかでも可能性があるなら、私、それに賭けてみたいと思います。ちょうど今、私の劇団が藍ヶ丘で公演していますから、そこのお客さんや同じ役者仲間に聞き込みして、イナを探してみます」
巴は真摯なまなざしを静流に向けた。
「ととちゃん・・・」
静流はしばしのあいだ、巴の瞳を見つめたあと、小さなため息をついた。
「ありがとう、ととちゃん。私ってば、健君の居場所の手がかりが消えたからといって、簡単にあきらめてしまうなんて、ほんと駄目ね。私ももう1度、健君のことを探してみるわ」
「お願いします、静流さん。ふたりで探せば、ほわちゃんが戻る日までに、必ずイナを見つけることができますよ」
「そうね、ととちゃんが手伝ってくれるんだもの、絶対に見つかるわよね」
巴の自信に満ちた微笑みが、静流にふたたび希望を与えた。


静流との会話を終えた巴は、桜峰駅に向かって歩いていた。
辺りはすでに黄昏色に染まり、薄暗くなっていた。もうあと1、2時間もすれば、夜が訪れるだろう。
巴は足早に歩きながら、これからのことを考えていた。
静流同様、ほたるの望みを叶えてあげたいという気持ちはあるものの、それを実現することは困難極まりないのが現実だった。
健に関する情報がまったくないのだから、それで探そうという事態が無理筋といえる。
かといって、このままあきらめるわけにはいかない。あきらめてしまえば、それこそほたるの願いを消してしまうことになるからだ。
彼女の親友として、今はできる範囲のことを精一杯やるしかない。徒労に終わるかもしれないが、それでもやらないよりは数段ましというものだ。
───明日にでも早速、劇団の仲間に聞き込みしようかな。
やるべきことが決まったそのとき、
「いやです!離してください!」
女性の助けを求める声が耳に入り、巴は思わず立ち止まった。その声はどうやら少し先にある細い路地からしたようだった。
巴は急いで右手にある路地を曲がった。すると、そこにはガラの悪いふたり組みの男に絡まれている少女の姿があった。
少女は巴よりも少し年下で、セミロングの髪に眼鏡をかけ、おとなしそうな顔立ちをしており、身に着けている制服から浜咲学園の生徒であることがひと目で分かった。
「ちょっと、あんたたち、何してるのよ!」
巴が大声を上げると、男たちの注意が彼女に向けられた。
「ん、なんだおまえは?ひょっとして、おまえも俺たちと遊んでくれるのかなー」
男のひとりが卑下た笑みを浮かべ、近寄って来た。
「そ、そんなわけないでしょ!それより、さっさとその娘を放しなさいよ!でないと、ひとを呼ぶわよ!」
巴は後ずさりながら、男を睨みつけた。
「呼べるものなら、呼んでみな。ここは人通りが少ないから、無駄だと思うぜ」
男はそう言うと、巴の腕をつかんだ。
「ち、ちょっと、何するの!放して!」
巴は必死に男の腕から逃れようとしたが、やはり男の腕力にはかなわず、たちまち少女と同じような窮地に陥った。
絶体絶命のピンチが訪れたそのときだった。
突然、後ろのほうからサッカーボールが猛スピードで巴の横顔をかすめて飛んで行き、男の顔面に当たった。
「ぐわっ」
まともにサッカーボールを食らった男は無様な格好で地面に倒れた。
「え、え、な、何が起こったの?」
男から解放された巴は、驚きの表情を浮かべながら後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、彼女と同じ年頃の少年だった。
「なんだ、何が起こったんだ?」
奥のほうでセミロングの少女を捕まえていたもうひとりの男も、異変に気付いて後ろを振り返る。
「次はおまえの番だ」
少年はそう宣言すると、足もとに転がっていたサッカーボールをふたたび蹴った。
ボールはもうひとりの男の顔面に見事命中し、男は鼻血を出しながら崩れ落ちた。
「さ、今のうちにここから離れるんだ」
少年はすばやく少女のもとに駆け寄ってその手をつかむと、そのまま巴のところに向かった。
「君も急いで俺たちと一緒に逃げるんだ」
「え、あ、う、うん」
突然のことに戸惑いながら巴がうなずく。
三人は狭い路地を出ると、T字路を右に進み、人通りのある大きな歩道までたどり着いたところで、走るのをやめた。
「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」
少年はそう言って、少女の手を離した。
「あ、あの、助けてくれてありがとうございます。私は浜咲学園の舞方香菜といいます」
香菜と名乗った少女は、顔をほんのり赤らめながら丁寧なお辞儀をした。
「私は飛世巴といいます。あなたのおかげで本当に助かりました」
巴も続いて頭を下げる。
「いや、当然のことをしただけだから、気にしなくてもいいよ」
少年は穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「あの、もしよろしかったら、あなたのお名前を教えてくれませんか?」
「俺の名は中森翔太。もとは君と同じ浜咲学園の生徒で、今年の春からOBってやつになったばかりだ」
翔太は香菜の申し出に応えるような感じで簡単な自己紹介をした。それを聞いた香菜は、何かを思い出したように、口もとに手を当てた。
「あ、中森さんって、ひょっとしたらサッカー部のキャプテンをやっていた方じゃないですか?」
「改めてそう言われると照れるな。でも、よく俺のことを知っていたな」
「ええ、私は水泳部なんですが、部活のあいだによくサッカー部の練習を見ていたんです。それで、たった今、中森さんのことを思い出しました」
「なるほど、そういうことか」
翔太は頭をかきながら納得した。
「中森さんってサッカー部のひとだったんですか!」
香菜と翔太の会話が終わった瞬間、巴は思わず驚きの声を上げた。
偶然の出会いがもたらした意外過ぎる展開に、運命を感じずにはいられなかった。
「あ、ああ、そうだけど・・・」
そんな彼女を見て、翔太は戸惑いがちに答えた。
「あの、中森さんは伊波健ってひとを知っていますか?」
今度は翔太が驚きの声を上げる番だった。
「え、君は健のことを知っているのか?」
「はい。私はイナ・・・じゃなくて、伊波君とは友達同士なんです。実は今度、私の親友がオーストリアからこの日本に戻って来るんですけど、その子がどうしても伊波君と会いたいと言っていて、それでなんとしても会わせたいと思っているのですが、居場所が全然、分からなくて困っているんです。もし、伊波君の住んでいる場所か連絡先が分かるなら、是非教えてください。お願いします」
祈るようなまなざしを翔太に送る。
「その、日本に戻るっていう子は、ひょっとしてほたるちゃんのことかい?」
「え、ほわちゃんのことも知っているんですか?」
「当たり前さ。俺は健の友人だから、当然、健の彼女だったほたるちゃんのことも知っているよ。そうか、ほたるちゃん、日本に戻って来るんだ・・・」
懐かしそうに遠くを見ていた翔太であったが、すぐに神妙な面持ちになった。
「それを聞いたら、なんとかしてあげたいところなんだが、残念ながら俺も健の居場所は知らないんだ。何しろ、ほんと急にいなくなってしまったからな」
「そうですか・・・」
がっくりとうなだれる巴。
ある程度は予想していた答えだったが、それでも気落ちせずにはいられなかった。
それを見た翔太は、かすかな微笑みを浮かべて話を続けた。
「でも、こうして君と会ったのも何かの縁だ。俺も及ばずながら、健の居場所を探してみるよ。だから、悪いけど君の連絡先を教えてくれないか」
「え、ほんとにいいんですか?」
「もちろんさ。せっかくほたるちゃんが日本に凱旋帰国するんだから、なんとしても健を見つけて、彼女の願いを叶えてあげないとな」
「ありがとうございます、中森さん。それじゃあ、中森さんの連絡先も教えてください」
心強い援軍を手にした巴は、健の捜索に対する自信と決意を強めた。