ダ・カーポⅡ外伝~TIME WILL SHINE~

第2話 新たな一歩

「ただいま」
麻耶が家の玄関先で帰宅の挨拶をすると、小さな足音とともに弟の沢井勇斗が出迎えてくれた。
「ただいま、お姉ちゃん。今日は早いね」
勇斗は少し嬉しそうな顔をしていた。そんな弟の顔を見るたびにもっと早めの家路を心がけたいと思うのだが、現実はなかなかうまくいかなかった。麻耶の立場を考えると仕方ないことなのだが、やはりなんとかしたいと思わずにはいられなかった。
「ええ、ちょっとお母さんに話があるから早く帰ってきたの。お母さんは今いる?」
「うん。リビングにいるよ」
「そう。ごはんはおはなしが終わったら作るから、それまでおとなしく待ってて」
「うん、分かった」
「いい子ね」
麻耶は靴を脱いで板の間にあがると、勇斗の頭を軽く撫でて廊下の奥へ進んだ。
リビングに入ると、リクライニングチェアに腰掛けている母親の麻衣の姿が確認できた。
「あら、おかえり麻耶。今日はずいぶん早いのね」
「うん。それより今日の体調はどう?」
「大丈夫よ。ここ最近はずっといいみたい」
「よかった。でも、だからといって無理しちゃ駄目だからね」
「ええ、分かってるわ。いつも心配かけてごめんなさいね」
「そんなこと気にしないで。私たちはたったひとつの家族なんだから、心配するのが当たり前じゃない」
申し訳なさそうにする母親に向かって、麻耶は小さくかぶりを振った。
麻衣は数年前に体を壊して以来、激しい動きができなくなっていた。車椅子を使う必要はなかったが、歩くことすら長時間できない状態で、体調を崩すこともしばしばあった。
顔色を見る限り今は大丈夫のようだが、それでも油断はできなかった。ちょっとしたことで変調するケースを何度も見てきたからである。
「あのね、お母さん、実はお母さんに折り入ってはなしがあるんだけど・・・」
麻耶は意を決して会話を切り出した
「どうしたの?急に改まって」
麻衣が目を丸くする。
「えっとね・・・そのね・・・」
いざというところで言葉が詰まってしまった。今さらながらどうやって言えばいいのかという迷いが生まれる。単刀直入に言うべきか、それとも遠まわしに言うべきか。たったの二択だったが、そこが問題だった。母親の体と同じような問題なので、神経質になってしまう。ここが難所だった。
「どうしたの?麻耶らしくないわね。あ、もしかして・・・」
訝しげにしていた麻衣の表情がふっと緩んだ。
「そうか・・・ついに麻耶にもできたのね・・・やっとって感じかしら」
ひとりで納得する。
今度は麻耶が疑問を抱く番となった。
「あの、お母さん、何かすごい勘違いしていない?」
「え、てっきり麻耶がボーイフレンドを紹介したいという話をするのかと思ったのだけど、もしかして違うの?」
「ち、違うわよ!」
麻耶は必要以上の力を込めて否定した。顔が朱色に染まっているのが自分でも分かった。
「あら、それは残念ね。麻耶ももう年頃の女の子だから、そういうはなしのひとつぐらいでてもおかしくないのにねえ。本当にいないの?」
「お、お母さん・・・!」
慌てる娘の様子に麻衣は小さく笑った。
「麻耶をからかうのはこれぐらいにして本題に入りましょうか。何をためらっているのか知らないけど、遠慮せずに言いなさい。私たちは親子なんだから遠慮することなんてないわ」
「ありがとう、お母さん。実はね・・・」
ここで麻耶は学校で舞佳の言ったことを母親に話した。
結論はその5秒後に出た。
「いいわよ」
「え?」
あまりにも早くて短い答えに麻耶は面食らった。
「本当にいいの?」
「別に問題ないと思うけど、麻耶は何かあるの?」
何を今になってといわんばかりの顔をする。
「ううん、私はないけど・・・」
「それじゃあ、大丈夫と思うのだけど、どうもさっきから歯切れ悪いわね」
「こんなに簡単に了承してくれると思ってなかったから・・・」
本心を語る。長期戦になると予想していたら、カップラーメンができる時間よりも早く決着がついたので、困惑してしまった。
「どうしてそう思ったの?あ、もしかして私がμのことを憎んでいるって思っていたからかしら」
「うん・・・」
麻耶は素直にうなずいた。
μの存在がなければ母は夫と健康を、麻耶は父を失わずにすんだ。そして、沢井家に暗いて重い過去を根付かせる要因にもなっていた。かつての麻耶がμを憎悪していたので、母親はそれ以上の負の感情を抱いていると考えていたのだが、どうやらそこまではないようだった。
「なるほど、いつもの麻耶じゃない理由はそれだったのね」
麻衣はそう言うと、穏やかなまなざしを麻耶に送った。
「麻耶、私は今までμを一度も憎んだことはないわ。だって、μは私が愛した拓馬さんの夢の結晶ですもの。確かに昔は価値観の違いで心無いひとたちにひどく中傷されて、つらくて苦しい思いをしたけど、それでも私は拓馬さんと拓馬さんの研究は間違っていないと信じていたわ。そして、今、μは万人に認められて、あのひとが描いていた理想の世界ができつつある。そこにたどり着くまでに大変な紆余曲折はあったけど、こうして拓馬さんの研究が実を結んだのだから何も問題はないわ。むしろ、拓馬さんの夢の結晶であるμを見られるなんて嬉しいわ。さっきそのμは行き倒れていたと言っていたけど、もしかすると拓馬さんが私たちのために授けてくれたのかもしれないわね」
「お母さん・・・」
麻耶は白日のもとに姿を現した母親の思いに胸をうたれた。そして、昔の自分を振り返って恥じた。
あの頃の麻耶は、μとともに開発者である父すら恨んだことがあった。しかし、母は麻耶よりも数倍苦しんだはずなのに父を信じ続けていた。
母は大人なのだとしみじみ思う。同時に自分がまだまだ子供なのだと思い知らされた。
「話はこれだけかしら?」
「あ、うん」
「それなら、ごはんにしましょう。せっかく久しぶりに家族全員がそろったのだから時間がもったいないわ」
「そうね。勇斗もお腹空かせて待っているし、すぐに準備するね」
麻耶は和やかな気分でリビングをあとにした。


μの件は結論が出たあと、とんとん拍子で話が進み、舞佳と麻耶の会話からわずか3日で、μが沢井家へ送り届けられた。
「はじめまして。私は水越舞佳といいます。沢井拓馬博士にはマスターコースの時代にいろいろお世話になりました。このたびは、こちらの急な申し出を快く受けてくださりありがとうございます」
μと一緒に沢井家へ訪れた舞佳が、玄関で出迎えた麻耶の隣にいる母親に向かって頭を下げた。
「そういえば、主人から生前にマスターコースに舞佳さんという美人で優秀な生徒がいるっていう話を聞いたことがありましたけど、どうやらあなたのことみたいね」
「そうですか。博士がそんなことを・・・覚えてくださって恐縮です」
ふたたび頭を下げる。
「さ、立ち話もなんですから中にお入りください」
「お邪魔します」
舞佳は白衣を微かに揺らしながら上がった。そのあとに例のμが会釈して続く。
「あの、差し支えなければ沢井博士にご挨拶したいのですが、よろしいですか?」
リビングに入った直後、舞佳が麻衣に向かって尋ねた。
「ええ、もちろん構いませんよ。きっと主人も喜ぶことでしょう。案内しますわ」
麻衣は舞佳を連れ父の仏壇がある部屋へ連れて行った。麻耶と勇斗とμのふたりと一体が残される形となった。
───これが行き倒れだったマスター不明のμ・・・
麻耶はμをじっと観察した。
髪の色が桃色であることを除けば、外観的なものは一般のμと変わりない。だが、気になった点がひとつあった。彼女の仕草である。このμは辺りをしきりに見回していた。仕様の進化によるものなのか、それともこのμにしかない特別なシステムなのか定かではないが、その動作に人間らしさを感じた。
こうして目の当たりにすると、やはり複雑な心境にかられる。今だからこそμの存在が悪いわけではないと理解できるのだが、それでも心底に漂う灰色の雲は晴れなかった。彼女たちがいなければ、違った未来があったのは事実である。父は死なずにすんだし、母も身体を壊すことがなかったと思うし、家族全員で平穏に暮らせていたに違いない。
もしという単語をつけて過去を振り返っても何の意味もないことなのは分かっている。だが、それでもつい後ろを見てしまう自分がいる。どうしても家族全員がそろって楽しく過ごしていたあの頃が懐かしくて、つい渇望してしまうのだ。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
勇斗が好奇心をあらわにしながらμに近づいた。勇斗はまだ幼いため、麻耶みたいな感情は皆無のようだった。それが麻耶にとってちょっとした救いでもあった。弟までが憎しみにとらわれずにすんだからである。
「私はリュミールと申します」
「リュミールかあ、いい名前だね。僕は沢井勇斗。よろしくね」
と言って無邪気な笑みを浮かべた。
「こちらこそよろしくお願いします、勇斗様」
それに対し、リュミールも笑顔で返した。そこにも麻耶が持っている先入観との違いが見受けられた。
「ゆ、勇斗様って・・・お姉ちゃん、どうしよう。そんなふうに呼ばれると恥ずかしいよ」
勇斗は照れながら麻耶に助けを求めた。その姿が我が弟ながら可愛らしい。麻耶の頬が自然と緩くなった。
「呼び方はあとで変えることができるはずだから大丈夫よ」
麻耶は知っている範囲の知識を思い起こして答えた。弟の反応を見て、これなら人見知りの激しい彼でも大丈夫だと確信できた。内心この点も心配していたのだが、どうやら杞憂に終わりそうだった。
「あらあら、もう仲良くなっているみたいね」
ここで麻衣が舞佳と一緒に戻ってきた。ふたりが向かい合うようにソファーに腰掛けると、麻耶と勇斗が母親側、リュミールが舞佳側にそれぞれ座った。
「それではリュミールと今後のことについて説明します」
舞佳はリュミールの経緯と機能、緊急のトラブル発生時の対応の仕方やメンテナンスについて語った。メンテナンスは基本的には週一で研究所の職員が定期的にやってきてしてくれるそうなので、麻耶たちがすることはないということだったが、一応簡単な手入れ方法だけは教えてくれた。
麻耶は説明を受けながらも、ときどきリュミールの様子をうかがった。
彼女からはかつてのμのような独特の冷たさは微塵もない。美夏とも違うタイプではあるが、傾向としては彼女寄りのように思えた。
母親を挟んだ反対側にいる勇斗は、まじまじとリュミールを見ている。完全に釘付け状態だ。リュミールはそんな勇斗に向かって微笑みかけた。それにつられるような感じで勇斗もはにかんだ。ふたりのやりとりに麻耶の気持ちが春の陽光に包まれた。
「・・・とリュミールについての説明は以上になります。もし、不明な点がありましたら私か研究所のほうに問い合わせてください。それから、さっきも言いましたが、彼女には不確定要素がありますので、何か変わったことがありましたらすぐにお知らせください。あと質問や問題点があれば受けつけますが、何かありますか?」
舞佳はそう言って一同を見渡した。
「私のほうはありません。麻耶はどう?」
麻衣が娘に視線を送る。
「私も今のところ特にないわ。あとで出てくるかもしれないけど、そのときは先生にまた尋ねるわ」
麻耶のほうも今のところ質問する事項がなかったので、とりあえず母親と同じ答えを出した。
「それではリュミールのことをよろしくお願いします。リュミール、みなさんに挨拶しなさい」
「はい、博士」
リュミールは優雅な動きで立ち上がると、恭しく一礼をした。
「これから皆様のお世話をすることになりましたリュミールと申します。皆様のお役に立てるよう頑張りますのでよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いしますね」
「よろしく頼むわね」
「よろしくね、リュミール」
新たな加わった家族の一員を麻耶たちは快く迎え入れた。
沢井家にとって過去を乗り越える大きな一歩目が踏み出された。