ダ・カーポⅡ外伝~TIME WILL SHINE~
人通りがなくなった学校の廊下を沢井麻耶は急ぎ足で歩いていた。麻耶は帰りのホームルームが終わったあとに呼び出しを受け、保健室へ向かっていた。
教師からの呼び出しというのは、やはりあまりいい感じがしない。心当たりがなければなおさらのことである。
保健室に着いた麻耶は、軽くドアをノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
中に入ると、保健の先生である水越舞佳が悠然と椅子に座っていた。
「忙しいところ呼び出して悪いわね。立ち話もなんだから、そこの空いている椅子にでも座って頂戴」
麻耶は勧められた折り畳みの椅子に腰を降ろした。
「お茶でもどう?」
「いえ、結構です。それより用件は何ですか?」
「沢井さんに折り入って頼みたいことがあるの。実は沢井さんの家で一体のμを預かってもらいたいんだけど、どうかしら?」
「ちょ、ちょっと待ってください!それってどういうことですか?」
舞佳の言葉に麻耶は面食らった。まさかこんな話が出るとは思ってもみなかったからである。急に呼び出されて、何の脈絡もなしにμを預かってくれと言われて困惑せずにいられようか。
舞佳はそんな麻耶に構わず話を続けた。
「さっき言ったとおりμをあなたのもとに置いて欲しいってことよ。そのμっていうのがちょっと変わっていてね、行き倒れになっていたの。当然私たちもμの所有者を調べたのだけど、おかしなことに所有者はおろか、製造番号や年月日など本来こちらにあるはずのデータがいっさいなかったの。しかもμとしての備わっている機能もどういうわけかなくなっていて、運ばれた当初は単なる欠陥品に過ぎなかったわ。一応私のほうでμとしての機能をプログラミングして、μ本来の機能を備えてはみたのだけど、実際に使ってみて大丈夫かどうか調べなくてはならないの。そこで沢井さんにそのμのマスターになってもらって、人間社会に適応できるμになっているかどうかテストしてもらいたいのよ。あ、テストといっても別に難しく考えないで。ただ普通にお手伝いさんみたいな感覚でμを使えばいいから」
「事情は分かりましたけど、でも、それなら別に私の家じゃなくてもいいんじゃないですか?」
気を取り直した麻耶は真っ先に思ったことを口にした。
「あなたを選んだ理由はふたつあるわ。ひとつは美夏があなたを推選したことよ」
「美夏が?」
意外な人物の名前が出て目を丸くする。
「そうよ。最初は美夏のところに預けようと思っていたのだけど、彼女がそういうことなら、自分より沢井さんのほうがいいって言ったの。沢井さんは生徒会長になってからいろいろ忙しくて、家のことまで手が回らなくなってきているみたいだから、ちょうどいいって言っていたわ」
「あの子ったら、肝心なときには鈍いくせに変なところに気が回るんだから」
麻耶は生徒会副会長であり、今では親友と呼べる間柄になった少女の顔を思い浮かべた。
「それからもうひとつの理由は、あの子を預けるのならあなたが最適だと私が判断したからよ」
「どうして私が適任だと判断したんですか?」
「あなたが美夏と親友だからよ。つまり沢井さんがロボットのことを一番理解しているって私は思っているの。それじゃあ駄目かしら?」
舞佳は柔和な視線を送った。
「駄目じゃないですけど、あまりも急なはなしですし・・・」
確かに生徒会長に就任してから家族の世話がおろそかになっていたので、舞佳の申し出は麻耶自身にとっても悪いはなしではなかった。しかし、沢井家が他の家にはないμとの深い接点があるが故にためらわずにはいられなかった。
「今すぐ返事しなくてもいいわよ。一度家族の方におはなしして決めてもらっても構わないわ」
「分かりました。家に戻って家族と相談してみます」
「ありがとう。これは別に強制じゃないから無理な無理でいいから。個人的には引き受けてもらえるとすごく助かるのだけどね。忙しいところ呼び出してごめんなさい。私の用事は終わったからもう行ってもいいわよ」
「それでは失礼します」
麻耶は一礼をして保健室から出て行った。
「お、やっと終わったようだな」
馴染みある声に麻耶の背中が反応した。振り返ると牛柄の帽子をかぶった少女が壁にもたれるように立っていた。先ほど話題に上がった天枷美夏である。
麻耶はやや大またで美夏に近づいた。
「美夏、あなたねえ、何勝手にひとを推選してるのよ。それに知っていたら教えてくれてもいいじゃない」
「すまない。すっかり忘れてた。しかし、推選するのにわざわざ本人に同意を得なくてはいけないのか?」
美夏が能天気に受け答えする。
「まあ、別にそこまでしなくてもいいけど」
それに対し、麻耶は声のトーンを下げて答えた。
「なら問題ないではないか。それでμを預かることにしたのか?」
「そのことなら回答を保留したわ」
「どうしてなのだ?μがいれば麻耶の苦労も軽減するではないか。美夏はそう思って推選したのだぞ。それなのにどうして受けなかったのだ?」
美夏が納得できないという顔をする。
「そう簡単にいく問題じゃないの。特にμに関してはね。それは美夏も知っているでしょ」
「知っている。でも、それもう過去のことではないか。もしかして、麻耶はまだこだわっているのか?」
彼女の表情がたちまち険しくなった。
麻耶は首を小さく横に振った。
「ううん。私や勇斗は大丈夫だけど、問題なのはお母さんなの。お母さんがμの存在を快く思っていない可能性があるかもしれないから」
引っ掛かるのはその点だった。μについての話題を今まで自然と避けていたので、母親がμについてどう考えているかはまったくもって謎だった。正直いって今でもしないほうがいいのではと思う自分がいる。古傷に触れて悪化させては元も子ないからだ。だから、どうしても慎重にならざるを得なかった。
「そうか。でも、美夏は大丈夫だと思うぞ。麻耶のお母さんは美夏の素性を知っていて、普通に接してくれているからな」
美夏は自信を持って言った。
「それは美夏がμとは違うからよ」
対照的な雰囲気で麻耶が答えると、美夏は真剣な面持ちで一歩詰め寄った。麻耶はその迫力に気圧されて思わず後ずさった。
「違わないぞ。姿形こそ違うが、美夏もμも同じだ。同じロボットだ」
「それはそうかもしれないけど・・・」
麻耶は言葉を濁した。
言いたいことがよく分かるだけに困ってしまう。理屈だけで考えるとそのとおりなのだが、それでも割り切れない事情が沢井家にはある。かつて麻耶もロボットに対して憎悪と嫌悪を抱いていただけに迷いは大きかった。
時代が変わり、今でこそロボットは人間社会に溶け込み同じ立場で共存できるようになってきたが、それでも未だに差別する人間がいる。残念ながらここ風見学園でも、美夏に対して偏見を持っている生徒がいることを麻耶は知っていた。そう、まだ完全に認め合う関係にはなっていないのだ。
μを預かれば家の仕事をやってもらえるので、間違いなく心配ごとのひとつが消える。利はあっても害はないので、麻耶個人としては受け入れたいのだが、母親のことを考えるとあと一歩が踏み出せなかった。
「ちゃんと頼めばきっと大丈夫だ。何なら美夏が一緒にお願いしてもいいぞ」
美夏は向かい合うように立って麻耶の両肩に手を置いた。まるで麻耶の不安を見透かしているように。親友の心遣いに麻耶はちょっとした感動を密かに覚えた。
「気持ちはありがたいけど、これは私たち家族の問題だから、私がお母さんに説明するわ」
麻耶はきっぱりと答えた。せっかくの申し出だが、ここは頼るわけにはいかなかった。
「そうか。もし、美夏の力が必要になったら遠慮なく言ってくれ。麻耶は美夏の親友だから、どんなときでも力になるぞ」
「もうっ、よくそんなことを恥ずかしげもなく言えるわね」
聞いていた麻耶のほうが恥ずかしくなってきた。もちろん、嬉しい気持ちも同じくらいあったが、それを口にできるような麻耶ではなかった。思ったことを直球で言える彼女がまぶしくて、ある意味うらやましかった。もし、美夏みたいな性格だったら、今もこんな不安を覚えたりはしないだろう。
「そうか?美夏は別に恥ずかしくもなんともないぞ。だって、本当のことだからな。ここで今、大声で言うことだってできるぞ」
「い、言わなくていいわよ!もう十分分かっているから!」
麻耶は慌てて美夏にしがみつき手で口を押さえた。
「ふがっ、苦しいぞ、麻耶・・・」
美夏が麻耶の腕の中でもがく。
「本当にもう、この子ったら・・・」
麻耶は軽く悪態をつきながらも柔らかみのある表情を浮かべた