甘美なランチタイム

最初の授業から数えて4度目の鐘が鳴った。昼休み時間の訪れを告げる鐘の音だ。
教壇に立っていた教師が去ったのと同時に教室内が喧噪に包まれ、各々の学生がランチタイムの準備に取りかかった。
「渚砂さん、今よろしいかしら?」
学食へ行くために席を立とうとした渚砂は、声を掛けられ横に顔を向けた。その刹那、彼女の顔が瞬時に凍りついた。
来訪者は上級生だった。
後ろで結われて、たおやかな波を優雅に描きながら流れ落ちる質量豊かな髪。
フランス人形のような気品に満ちた端正な顔立ち。
一種の芸術品とさえ思わせるような均整が取れた肢体。
花園静馬───学年は6学年(高校3年)で、渚砂の2年先輩にあたる。ここ聖ミアトル女学園が誇る屈指の美少女で、「ミアトルの女神」の異名を持っている。圧倒的なまでの美貌とカリスマの持ち主で、彼女のことを知らない生徒は存在しない。そんな聖ミアトルを象徴する人物の登場に、周囲はたちまち騒然となった。
「し、静馬様!わ、わ、私に何か御用ですか?」
大物の突然の来訪に渚砂は動揺した。この学園に転入して以来、どういうわけか「ミアトルの女神」によく話しかけられる。その理由はいくら考えても皆目見当がつかない。そのため、今でも静馬に声をかけられるたび、緊張と戸惑いが駆け抜けた。しかし、同時に嬉しい気持ちもしっかりと存在していた。上級生の中で一番初めに気に留めてくれたのが静馬だったからである。
「渚砂さんは今日のお昼どうされるのかしら?」
「あ、はい、私は今から食堂のほうで食べるつもりですが」
「そう、それならちょうどよかったわ。実は持ってきたお弁当が多すぎて困っているの。よかったら一緒にいかが?」
「え、あ、あの、私なんかでいいんですか?」
おどおどしながら上目遣いで尋ねる。
「もちろんよ。そのためにお誘いしているんですもの。返事のほうはOKでよろしくって?」
「は、はい。私でよければご一緒させていただきます」
うつむき加減で答える渚砂。嬉しさと恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
「決まりですわね。今日は天気もいいことですし、中庭で頂きましょう」
静馬は渚砂の手を取ると、軽やかな足取りで歩き出した。
たちまち羨望の視線が四方八方から注がれる。中には女神に招待されなかった悲しさからか、すすり泣いている子もいる。そんな彼女たちの姿に、渚砂は罪悪感を覚えずにはいられなかった。渚砂はごめんなさいと心の中で謝りながら何度も小さく頭を下げた。


緑の映える芝生の上で、ふたりっきりの雅な昼食会が始まった。
優雅な姿勢で腰を下ろした静馬は、弁当箱を包む絹のハンカチの結び目をほどいた。高価そうな2段重ねの重箱が姿を見せる。少なくとも高校生の少女ひとりが食べるには多すぎる量であることがうかがえた。
───もしかして、静馬様は私と一緒にお弁当を食べるためにふたり分用意してくれたのかな?
ふとそんな期待を抱く。もっとも、ただ単に多くつくり過ぎたという可能性のほうも否定できないが、それでも一緒に弁当を食べられることに変わりないので、渚砂としては予期せぬ嬉しい出来事だった。
「あなたのお口に合うかどうか分からないけど、よかったら遠慮せずに食べて頂戴」
と言いながら弁当箱のふたを開ける。
「うわあ、すごい・・・」
その瞬間、渚砂は驚嘆の声を上げた。
箱の中身は春に正月が来たと思わせるほどの料理がところ狭しと詰められていた。さすが一流のお嬢様は弁当からしてスケールが違う。
「もしかして、これって全部静馬様がお作りになられたのですか?」
「いえ、全部私の家にいる専属のシェフが作ったものですわ。私、料理は学校の授業以外でしたことはありませんの」
「そ、そうですよね。静馬様ほどの方がわざわざご自分で作る必要なんてないですよね」
渚砂は慌てて彼女の言葉に同意した。自分の質問がいかに的違いだったかを知って恥じ入る。
「渚砂さんは手作りのほうがよろしいのかしら?」
静馬はじっと渚砂を見つめながら尋ねた。
「あ、えっと、正直に言うと静馬様が作ったお弁当を食べてみたいと思いました。でも、こうして静馬様とご一緒できるのなら、別に手作りじゃなくてもすごく嬉しいです」
「フフフフ、ありがとう。そう言って頂けると、お誘いした甲斐がありますわ」
後輩の返答に笑顔を浮かべる。そのときの彼女の表情は女神の微笑みを連想させるほど、神々しさに満ち溢れていた。
「私、渚砂さんのために今度お弁当作りに挑戦してみますわ」
突然の発言に渚砂はひどく驚いた。
「そんな!いいですよ、私なんかのためにわざわざ作る必要なんてないです!」
「いえ、是非そうさせて頂戴。そのかわり、作ったときは食べて頂けるかしら?」
「は、はい!そのときはごちそうになります!」
このとき、渚砂は初めて素直に喜びを表すことができた。またお昼を一緒にできることもそうだが、何より自分のためにお弁当を作ってくれることが嬉しかった。
「渚砂さん、これもおいしいわよ」
静馬は煮物とおぼしきものを箸でつまむと、渚砂の前に差し出した。
「し、静馬様?」
渚砂は目の前に突き出された煮物と静馬の顔を交互に見比べた。
「ほら、遠慮しないで口を開けてごらんなさい」
「あ、で、でも・・・」
「さあ、早く」
「は、はい・・・」
渚砂は目を閉じて口を開けた。気恥ずかしさでいっぱいだったが、女神の意思には逆らえない。煮物が口に入った瞬間、全身が熱くなり、胸の動悸がたちまち激しくなった。
渚砂が目を開けると、ミアトルの女神は優雅な笑みをたたえていた。さらに熱が高くなり、胸の鼓動が加速する。
「そういえば、渚砂さんにはお兄様がいらっしゃるのよね?」
「はい、そうですけど」
渚砂は頬を手で押さえながら答えた。
「渚砂さんのお兄様ですから、きっといいお兄様なのでしょうね」
「はい、優しくて頼りがいがあるとてもいいお兄ちゃんです」
身内を褒められて喜色を浮かべる。渚砂にとって兄は家族の中でも一番好きな相手なので、話題に出ると嬉しくて仕方なかった。まわりから「ブラコン(ブラザーコンプレックス)」だと言われるが、それについてはしっかり自覚していたりする。つまり自他認める「ブラコン」というわけだ。
「そうですわね。渚砂さんのお兄様ですから、きっと立派な方でしょうね。渚砂さんを見れば、分かりますわ。機会があれば是非お会いしたいですわね」
静馬は目を細めて大きくうなずいた。
「あ、それでしたら、今度近いうちにお兄ちゃんが来ますので、そのときに紹介します」
「ありがとう。そのときはきちんと身なりを整え、お兄様とご対面しますわね。渚砂さんのお兄様は私のお兄様も同然ですから、失礼のないようおもてなし致しますわ」
「静馬様、それって・・・」
「フフフフフ、言葉どおりの意味ですわ」
静馬は前ににじり寄ると、渚砂を抱き寄せた。強い薔薇の香りが鼻を刺激する。
「きゃっ」
突然の出来事に渚砂は悲鳴を上げた。体内の血液の循環が速くなっていくのが分かる。高鳴る胸の鼓動は静まる気配がない。いや、むしろさらに加速しているようだった。
───私、今、静馬様に抱きしめられている・・・
相手は同じ女の子なのに、まるで異性に抱かれているような錯覚を覚える。背徳の思いが渦巻く反面、甘美な感情も芽生え始める。禁断のつぼみは女神の抱擁によって色づき、花を咲かそうとしていた。穢れ(けがれ)を知らない百合の花を。
「渚砂さん、これからは私のことを本当の姉だと思って頂戴。私も渚砂さんの姉として、渚砂さんをしっかり守って差し上げるから」
静馬は渚砂の頬にかすめるようなキスをしたあと、耳元に形のよい唇を寄せてささやいた。
彼女の接吻と熱い吐息を受けた刹那、渚砂の全身の力が抜け落ちた。
「静馬様・・・はい、よろしくお願いします」
渚砂は女神の腕の中で静かに目を閉じた。