Dulce Zanahoria

けたたましく鳴るアラーム音が安眠の結界を打ち消す。
目覚めをうながされた絆奈は、横になったまま目覚まし時計のボタンを押すと、ベッドから起きあがろうとした。ところが、意に反して体が動こうとしない。ふたたび訪れた沈黙とともに現れた睡魔に襲われたからだ。一応抵抗は試みたものの、いかんせん相手の力が強すぎて、あっさり屈してしまった。
「おはようございます」
そのとき、春風のような声が絆奈の耳に届いた。誰かが自分を起こそうとしていることは分かったが、肝心のまぶたが開こうとしない。
「おはようございます」
「ふにゃあ、おやすみなさい・・・」
ふたたび掛けられた声に対し、正反対の言葉を返す絆奈。もはや本能しか働いていなかった。
「あらあら、また眠ってもらわれては困りますわ。どうしたものでしょうか・・・そうですわ、せっかくですからこの手を試してみましょう」
次の瞬間、絆奈の額に柔らかくて暖かい何かが触れた。同時に桜の花の香りが彼女の鼻をくすぐる。
その香りに誘われ、絆奈はうっすらと目を開いた。ぼやけた視界がゆるやかに鮮明さを取り戻す。すると、柔和な雰囲気を漂わせた少女の顔が飛び込んできた。
「・・・千華留お姉ちゃん?」
「おはようございます、絆奈さん」
千華留と呼ばれた長い黒髪の少女は優しさ溢れる笑顔を浮かべた。
源千華留───絆奈が通っている聖ル・リム女学校で生徒会長を務めている5年生(高校2年生)である。たおやかな物腰といい意味で少女とは思えない落ち着きを持っている聡明な少女で、学年の上下に関係なく絶大な人気を誇る。
絆奈は聖ル・リム女学校を代表するといっても過言ではない少女の顔をまじまじと見つめた。
「あれ、なんで千華留お姉ちゃんがここにいるの?」
「一緒に朝食を食べようかと思ってお誘いにやって来ましたの。そうしたら、絆奈さんがまだ眠っていてなかなか起きてくださらなかったので、少し焦ってしまいましたわ。でも、そのおかげで絆奈さんの可愛い寝顔が拝見できましたし、それにおはようのキスもさせて頂きましたから、結果的にはよかったといえますわね」
「ええええっ、キス!?もしかして千華留お姉ちゃん、絆奈のファーストキスをとっちゃったのお?」
絆奈は目を大きく見開きながら飛び上がるように起きた。
そんな彼女を見て、千華留は右手を口もとに当てて忍び笑いをもらした。
「ウフフフ、それなら大丈夫ですわ。私がキスした場所は額ですから。本当は眠り姫を演じている絆奈さんの王子様になって、その愛らしい唇にキスをしようかなって思いましたけど、さすがに相手が私では悪いかなと思って遠慮させて頂きました」
「あ、さっき絆奈のおでこに何か柔らかいものが触れた感じがしたのは、そのせいだったのね。もうっ、千華留お姉ちゃん、びっくりさせないでよ」
絆奈は全身を使ってため息をついた。
「ウフフ、驚かしてしまってごめんなさい。でも、驚いた絆奈さんもとても愛らしくていいですわ」
千華留が楽しそうに笑う。
「さあ、このままだと朝食抜きになってしまいますから早く着替えをすませてください」
「あー、もうこんな時間!急がなきゃ!」
絆奈は目覚まし時計の針を見て大声を上げた。
「それでは私は外に出て待っていますね」
千華留が外に出たあと、絆奈は大慌てでパジャマから制服に着替え始めた。
「おまたせしましたあ!」
ピンクのチェック柄の制服に身を包んで、勢いよく部屋から飛び出す。由緒正しいお嬢様学校の生徒としては不適格な行動なのだが、時間が推している以上そんなことなど気にしていられない。しかし、待っていた先輩は違っていた。
「絆奈さん、時間がないからといって、そんなふうに慌てて出るのはいけませんわ。つまずいて怪我でもしたら大変ですから」
「ごめんなさい、以後気をつけます」
やんわりと注意され、素直に頭を下げる。
校則で上級生は下級生を常に守り教え導くようにと定められているのに対し、下級生は逆に上級生を敬い、教えに従うようにという暗黙の校則が作られている。つまり、お姉さま方の言葉は神の言葉と同様なのである。だから、反論などは断じて許されないのだ。
「それから制服はしっかり着ないといけませんわ。女性は何よりも身だしなみが大切ですから」
千華留は絆奈に歩み寄ると、優雅な身のこなしで体を屈め、解けかかった制服の胸の紐を結びなおした。かすかに漂う桜の匂いに、絆奈の胸が一回だけ大きく波打つ。
「これでよろしいですわ」
「あ、ありがとう、千華留お姉ちゃん」
絆奈はほんのりと頬を染めた。色づいたのは指導されて恥ずかしかったわけではない。
間近で見た千華留の瞳と桜の香りに甘美な思いを抱いたからである。
「さ、参りましょう」
千華留は絆奈の右手を取って歩き出した。
優しく握られた手のひらから伝わる温かさと柔らかさが絆奈の頬をさらに熱くさせる。
───そういえば、確か初めて千華留お姉ちゃんと会ったときも、こんなふうに手をつないでくれたんだよね。
絆奈はふと過去のことを思い出した。
千華留と初めて出会ったのは、絆奈が入学して3日目のことだった。このとき、家族と離れ離れになって暮らすことに対する不安からホームシックに陥り、寄宿舎のロビーでひとり泣いているところに現れたのが千華留だった。
彼女は親身になって絆奈を励まし、優しく接してくれた。そして、わざわざ学校から許可を取り、しばらくのあいだ一緒に寝泊りしてくれた。それがきっかけとなり、千華留は何かあるごとに絆奈のもとへ訪れるようになった。
あのときに受けた優しさは今でも鮮明に覚えている。だから、絆奈は千華留のことが大好きだった。胸がドキドキするぐらいに。そのときめきは彼女と接するたびに強さを増していった。
絆奈は食堂へ向かう道中、ずっとうつむき加減で先輩のあとに続いた。


寄宿舎の1階にある食堂は、西洋風の造りとなっており、厳かな雰囲気を醸し出していた。
淡い桃染(つきぞめ)色をした正方形のタイル状の床は見事なまでに磨きが掛かっていて、シャンデリアから降り注ぐ光をあますことなく反射していた。
また床と同様の色の壁には、いかにも高そうな絵画やタペストリーが飾られていて、こちらもよく手入れが行き届いている。
もちろん、両方とも傷や汚れなどひとつもない。純真無垢な乙女が集う場所としては非の打ち所がなかった。さすが名門のお嬢様学校といったところだろうか。
千華留と向かい合って座った絆奈は、あるものを避けるようにして朝食をとっていた。それはポタージュスープの中にある人参の固まりだった。
「あら、それは食べないのですか?」
千華留がそのことに気づいて尋ねた。
「だって人参、嫌いなんだもん」
絆奈は嫌悪感をあらわにして答えた。
「好き嫌いをしてはいけませんわ。この人参は農家の方が一生懸命作ったものですから、ちゃんと残さず食べないと農家の方に申し訳ありませんわ。それに栄養が偏って体にもよくありませんわ」
小さな子供に注意するような口調で言う。
「でも・・・」
後輩の反論を遮るように千華留が話を続けた。
「そのお皿を貸してください」
と言って絆奈の皿を取る。そして、フォークで中にある人参を刺すと、欠けらほど残るようにして口に入れた。
「ほら、人参だってとてもおいしく頂ける食べ物ですよ」
千華留はにっこりと微笑むと、フォークを前に差し出した。
「はい、あーんしてください」
「え、ええっ!?」
絆奈は思わず大声を上げてしまった。まさか食べさせてもらうようになるとは思ってもみなかったからである。
千華留は女神のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。ただし、反論を与えるような隙はどこにも作っていなかった。さすが聖ル・リム女学校が誇る才女といったところだろうか。
人参を食べることに抵抗はあるが、先輩に勧められてしまっては断れない。まして新入生の身であるならなおさらのことだ。それにまた、わざわざ人参を小さくして食べやすいように配慮してくれた千華留の心遣いが嬉しかったので、その好意を無駄にしたくなかった。
絆奈は目を閉じておずおずと口を開けた。その直後、千華留のフォークを通して人参が彼女の口の中に入る。
「あれっ?」
絆奈は目を丸くした。今まで苦いと感じていたオレンジ色の欠けらが甘かったからである。
「どうですか。人参も食べてみるとおいしいでしょう」
「この人参って特別なのかな」
「ウフフフ、そんなことはないと思いますわ。この人参はどこにでもある人参ですわ」
千華留は屈託のない笑みで答えながら首をひねる後輩にまた人参を食べさせた。この人参もやはり甘かった。
そのとき、絆奈はあることに気づいた。
───そういえば、これって・・・
瞬時に顔が朱色に染まる。同時になんとなくだが、今食べている人参の甘さの理由が分かった。
「どうかしましたか?」
絆奈の変化を察知した千華留が心配そうに尋ねる。
「う、ううん、なんでもないよ」
絆奈は大きく首を横に振って答えると、フォークの先にある人参を口に入れた。
こうして食べさせてもらうたびに体が熱くなり、胸の中にあるメトロノームの振り子の速さが増していく。不可思議な感情の芽生えに絆奈は戸惑いを覚えずにはいられなかった。
───このまま時間が止まればいいのに・・・
心の中でつぶやく。しかし、始まりのあとには必ず終わりが訪れる。このひとときも例外ではなかった。
「はい、よくできました」
千華留は最後の人参を食べさせると、母親が子供を褒めるような感じで絆奈の頭を軽く撫でた。
絆奈は名残惜しそうに空になった皿に目をやった。今まで嫌いだったものがなくなったのに未練が残るという矛盾が生まれる。仕方のないことなのだが、やはり残念な気持ちにかられる。時の流れがこれほどまでに恨めしく思えたのは初めてのことだった。
「これから人参を使ったお料理が出るときは私がご一緒して差し上げますわ。そうしないと、また人参だけ残してしまいそうですから」
千華留がそう申し出る。
「絆奈、ピーマンも嫌いなんだけど・・・」
絆奈はしばしの間をとると、上目遣いで千華留を見ながらぽつりとつぶやいた。
後輩の言葉に千華留は一瞬、驚いたような素振りを見せたが、すぐに穏やかな笑みを返した。
「分かりましたわ。ピーマンを使ったお料理のときもご一緒してあげますわ」
こうして人参から生まれた甘美なひとときの約束が交わされた。