目覚めた記憶と変わらぬ思い

「分かった、すぐ行く」
玄関先にある電話の受話器を置いた高幡雅人は、神妙な面持ちで靴を履き、外に出た。
雅人の向かう先は電話をかけた相手である大沢夏菜の家だった。
大沢夏菜は雅人の幼なじみで、幼い頃に事故で両親をなくし、ひとり暮らしをしている。
雅人は夏菜の電話を受けてからずっと、妙な胸騒ぎを覚えていた。
なぜなら、受話器越しに聞こえた彼女の声がいつもと違っていたからである。
「まー君に話したいことがあるから、できたらすぐ来てほしい・・・」
その声はいつも耳にする明るい声とはまったく異なっていた。
夏菜はまるで何かに耐えるように声を震わせていた。
いったい夏菜に何があったのだろうか。そう考えるだけで、自然と雅人の歩みが速くなった。
幸い、夏菜の家はすぐ隣にあるため、1分もかからずにたどり着くことができた。
───そういえば、玄関から夏菜の家に入るのって、久しぶりになるな。
雅人は玄関を見てふと思った。
ここ最近はお互いベランダ越しに移動することが多かったので、こうして雅人が正面から夏菜の家に入るのは久しぶりのことだった。
雅人は玄関先にあるチャイムを押して、ドア越しに声をかけた。
「夏菜、俺だ、雅人だ」
しばらくして、奥のほうから軽い足音がして、玄関のドアがゆっくりと開いた。
少しずつ広がる隙間から、夏菜の姿が完全に見えるまで少しの時を要した。
「まー君・・・ごめんね、急に呼び出したりなんかして」
夏菜の表情は暗く沈んでおり、明らかにいつもと違っていた。
そんな彼女を見て、雅人は急激に不安を募らせた。
「いや、それは別に構わないが、いったい何があったんだ?」
「・・・うん、とりあえず上がってよ。立ち話もなんだから」
「ああ、分かった」
雅人は夏菜に連れられ、2階にある彼女の部屋へ入った。
夏菜の部屋は、大小のファンシーグッズがところどころ置かれており、いかにも女の子らしい造りとなっていた。
夏菜は雅人を中に入れると、静かにドアを閉めた。そして、その場に立ち尽くしたまま、じっと雅人を見つめた。
重苦しい沈黙が部屋を支配していく。
「夏菜」
その沈黙を打ち消すかのように雅人が口を開いた。
「まー君・・・あのね、私ね、夢を見たの・・・」
夏菜は消え入りそうな声でぽつりぽつりと語り始めた。
「夢?」
「うん・・・どこかの工場みたいな場所で倒れている私をまー君が助け起こしてキスしてくれる夢・・・それを見たあと、私、すべて思い出したの・・・」
「私が人間じゃなく『マーメイド』だってこと・・・そして、まー君が私のそばにいる本当の理由を思い出したの・・・」
そう言って、悲痛なまなざしで雅人を見た。
あまりにも意外な言葉に雅人は絶句した。
───こんな形で夏菜の記憶が戻るなんて・・・
夏菜に何か声をかけないといけないと思うのだが、肝心な言葉が見つからない。
焦りが動揺に変わり、雅人は成す術もなく、ただ夏菜を見つめることしかできなかった。
「まー君、正直に言うとね、どんな理由があっても、それでまー君と一緒にいられるならそれでもいいと思ったの。でも、本当はそれじゃ駄目なんだよね。私のせいでまー君を縛り付けるのはいけないよね・・・」
「夏菜・・・」
「だからね、まー君。もう私に気を使わなくもいいよ。私はひとりでも大丈夫だから・・・今まで本当にありがとう」
夏菜はそう言って笑った。しかし、その笑顔が無理して作られていることは一目瞭然だった。今にも崩れてしまいそうな儚げな笑顔に、雅人は胸が締め付けられるような気持ちにかられた。
もし、雅人が夏菜のそばを離れれば、その先に待ち受けるのは過酷な運命しかない。
それは記憶が戻った彼女も知っているはずである。それなのに、気丈に振舞う夏菜を見て、雅人はどうしようもないくらいの愛しさを感じた。
いつも自分のことより、他人のことばかり気遣う夏菜。
そんな彼女だから、雅人はずっと見守っていこうと決めていたのだ。
「夏菜!」
雅人は無意識のうちに、幼なじみの名前を呼んで抱き寄せた。
「ま、まー君・・・」
「俺が夏菜をひとりぼっちにできるはずがないだろ。おまえは俺にとって一番大切な女の子なんだから」
「駄目だよ、まー君。そんなこと言っちゃ・・・せっかくの私の決意が鈍っちゃうよ・・・」
夏菜の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
「夏菜、余計な心配はしなくていい。俺はずっとおまえのそばにいる。そして、おまえを見守っていくつもりだ」
「私は人間じゃないんだよ。『マーメイド』なんだよ。このまま私なんかと一緒にいたら、不幸になってしまうかもしれないんだよ。だから、まー君は私なんかと一緒にいちゃ駄目なんだよ・・・」
夏菜が嗚咽まじりの声でうわごとのように言う。
「そんなこと関係ない!たとえどんな姿をしていても、夏菜は夏菜だ。俺の大切なたったひとりの夏菜だ!」
雅人は力いっぱい夏菜を抱きしめた。
「まー君・・・本当にずっとまー君と一緒にいてもいいの?」
「ああ、もちろんさ」
「ありがとう・・・」
夏菜は目を閉じて、雅人の胸に顔をうずめた。
「まー君の体ってとっても暖かいね。なんかすごく安心する」
「そうか」
「うん」
夏菜は小さくうなずいて、体をすり寄せた。
「夏菜」
「なあに?」
雅人の呼び掛けに反応して、夏菜が顔を上げた。その表情はいつもの夏菜に戻っていた。
雅人は夏菜の唇にそっとキスをした。
「あ・・・」
突然の出来事に、夏菜が目を大きく見開く。
「まー君、これもメンテナンス?」
「いや、俺はメンテナンスなんて一度も思ったことはない。これはその、なんだ・・・」
雅人は答えに窮して顔を真っ赤にさせた。
「あー、まー君、顔が赤くなってるー。ひょっとして照れてる?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないけど・・・」
さらに顔が朱色に染まる。
「たははははっ!まー君ってばかっわいいー!」
夏菜がいつもの笑い声を上げた。
「う・・・」
「照れてる、照れてる。まー君が照れてるー」
「こら、夏菜!」
「たははははははっ」
気がつけば、すっかり夏菜に主導権を握られてしまった雅人であった。
───ま、いつもの夏菜に戻ったからよしとするか。
雅人はこういうやりとりも悪くないと思った。
何より、夏菜が元気になってくれたことが一番嬉しかった。
雅人は無邪気な笑顔を浮かべる幼なじみに対して、穏やかなまなざしを送った。