夜が明けるまで・・・

朝日と小鳥のさえずりを背に受け、高幡雅人は隣の家に向かった。
「夏菜ー、迎えに来たぞー」
家の前に着くと、雅人は大声で幼なじみの少女の名前を呼んだ。
しばらくすると、ゆっくりと玄関のドアが開き、幼なじみの少女───大沢夏菜が姿を見せた。
「おはよう・・・まー君」
「おはよう」
彼女の顔を見たとたん、雅人はいつもと違う雰囲気を感じた。夏菜にいつもの明るさがなかったからである。
「夏菜、元気がないみたいだけど、どうしたんだ?」
「ううん、何でもないよ・・・」
そう答える夏菜の声には、やはり普段の明るさが欠けていた。
雅人は夏菜の身に何か起こっていることを確信し、その理由を問いただした。
「何でもないって顔じゃないぞ。もし、何か悩みがあるなら言ってみろよ。今更、隠し事なんて水臭いぞ」
「・・・本当に何でもないよ・・・それよりもこのままだと遅刻しちゃうから早く学校に行こう」
夏菜は先頭に立って歩き出した。
「お、おい、夏菜・・・」
雅人は慌てて彼女のあとに続いた。
追いついた雅人は、さらに質問しようかと思ったが、やめることにした。無理強いしてまで聞くのは本意ではない。
結局、ふたりは終始無言のまま、学校へ向かった。沈黙が重苦しい空気をもたらす。
雅人はその道中で何度か夏菜の様子をうかがった。思いつめた彼女のまなざしに、しばし釘付けとなる。飽きるほど見ているはずの幼なじみの横顔が、このときはまるで別人のように感じられた。
いったい、夏菜に何があったのだろうか?
学校に着くまでのあいだ、雅人はずっとそのことだけを考えていた。


それから数日後───
蛍光灯の明かりによって白く照らされたリビングで、雅人は難しい顔をしながら考え事をしていた。
雅人が今、考えていることは夏菜のことであった。
夏菜の様子がおかしくなったあの日から、雅人は彼女とほとんど会話をしていなかった。夏菜が雅人を避けるような態度を取り続けたからである。
彼女の素振りからして、何か思い詰めていることは分かったが、その中身については皆目見当がつかなかった。
何度かそれとなく探りを入れては見たが、そのたびに逃げられてしまい、真相は未だ謎のままになっている。
雅人は無償に夏菜のことが気になった。
夏菜は他人に心配をかけまいと、悩みや苦しみをひとりで抱え込むきらいがある。それは子供の頃から一緒に過ごしてきた雅人が一番よく知っていた。そんな彼女だからこそ、雅人は心配でたまらなかった。
少しでも夏菜の力になりたい。そして、ふたたび夏菜の無邪気な笑顔が見られるようにしたい。
しかし、残念ながら今の雅人は、それを実現できる術を知らなかった。
何故、自分はこんなに無力なのだろうか。
雅人は己の不甲斐なさに、苛立ちを覚えずにはいられなかった。
───今から夏菜に会いにいこう。
ずっとソファに座っていた雅人は、勢いよく立ち上がった。
初めは夏菜が話すまで待つつもりであったが、もはや我慢の限界だった。
雅人はもどかしい気持ちを打ち消すため、2階にある自室へ向かった。
そして、中に入ると、窓ガラスを開け、ベランダに出た。
外はすでに真っ暗になっており、すぐ隣にある夏菜の部屋からは、窓ガラスを覆うカーテンを通して明かりが漏れていた。
雅人は慣れた足取りで、夏菜の家のベランダに移動すると、部屋の窓ガラスを叩いた。
「夏菜、俺だ。おまえと話がしたいから、ここを開けてくれ」
次の瞬間、ゆっくりとカーテンが開き、夏菜が姿を現した。
夏菜はほんの一瞬だけ驚いていたが、すぐに暗く沈んだ表情を浮かべ、力なく首を横に振り、またカーテンを閉めた。
「夏菜!待ってくれ、夏菜!」
雅人は近所迷惑になることも忘れ、激しく窓ガラスを叩いた。しかし、夏菜は一向に出てくる気配がなかった。
何故、ここまで自分を避けようとするのか?
さらに疑問が膨らんでいく。
「夏菜・・・」
雅人は我に返って窓ガラスを叩く手を止めると、呆然と立ち尽くした。
───それならば・・・
雅人はその場に座り込んだ。
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスという心境で、待ちの姿勢を貫く決意を固めたのだ。
冷たい秋の夜風が吹き抜け、雅人はその冷たさに身震いした。
待つこと約2時間───ふたたびカーテンが開き、夏菜がふたたび姿を見せた。
夏菜は今にも泣き出しそうな顔をして、しばらく雅人を見つめたあと、静かに窓を開いた。
「夏菜、入ってもいいか?」
雅人が確認の意思を込めて話しかける。
彼の言葉に対し、夏菜はこくりと小さくうなずいた。
雅人は夏菜の部屋に入ると、思わず懐かしい気分にかられた。
綺麗に整頓された机。
ベッドの上に置かれている大きなぬいぐるみ。
棚の上にあるファンシーグッズ。
よく考えると、こうして夏菜の部屋に入るのは、彼女と向かい合って話すことよりも久しぶりのことだった。
「まー君・・・」
夏菜は悲痛なまなざしを雅人に向けた。
その視線は、夏菜の胸のうちに秘められた苦悩の大きさを物語っていた。
「実はね、私、最近ずっと同じ夢を見ているの・・・」
「夢?」
鸚鵡返しに尋ねる。
「うん・・・すごく悲しくて、すごく嫌な夢・・・」
「どんな夢なんだ?」
「それはね・・・私がまー君を殺してしまう夢なの・・・」
夏菜の華奢な体がかすかに震え始める。
「はじめはただの悪い夢だと思ってた。でも、その夢が何度も再現されているうちに、次第に嫌な予感が膨らんで、いつか正夢になるんじゃないかと思い始めたの。理由は分からないけど、何故か私にはそれが近いうちに、現実で再現される気がして、そう思うと怖くて、不安でたまらなかった。だから、そんなことにならないようにするため、まー君との距離をおこうと考えたの。だけど、やっぱり私はまー君と離れ離れになるのは嫌・・・まー君のそばにいたい・・・まー君と一緒じゃなきゃ駄目なの・・・」
夏菜は胸の内を吐露すると、目から大粒の涙をこぼしながら泣き始めた。
「夏菜・・・」
雅人は、夏菜の泣き顔を見て、自分自身に立腹した。
何故、もっとこちらから積極的に夏菜の苦しみを分かろうとしなかったのかと、自責の念にかられる。
夏菜の幼なじみである自分が彼女の苦しみを理解してあげなければならなかったのに・・・
口惜しさが胸中にうずまく。
そして、同時に幼なじみの少女を悲しみから守ってあげたいという気持ちが溢れ出した。
雅人はゆっくり夏菜に近づくと、優しく抱きしめた。
「心配するな、夏菜。夢の中の俺とここにいる俺は違う。夢の中の俺は俺じゃない。ここにいる俺が本物だ。今、ここでおまえを抱きしめている俺が本物だ。そして、夢の中の夏菜は偽者で、俺の腕の中にいる夏菜こそ本物の夏菜だ。何度でも言う。夢の中の俺たちは俺たちじゃない。今、ここにいる俺たちこそが本物だ」
そう言って両腕に力を込める。
夏菜に雅人の存在を伝えるように・・・
夏菜の存在を確かめるように・・・
押さえきれない愛しさは、留まることを知らず、雅人の胸を熱く焦がした。
「・・・そっか・・・そうなんだ・・・そうだよね・・・夢の中の私たちとここにいる私たちは違うよね。今、このとき、この瞬間にいる私たちが本当の私たちなんだよね・・・」
夏菜は雅人の胸に顔をうずめてつぶやいた。
「まー君、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」
「なんだ?」
「あのね、今日1日ずっと私のそばにいて欲しいの。そして、夜が明けるまで私を離さないで欲しいの」
「ああ、分かった。夏菜がそうして欲しいのなら、ずっとそばにいるよ」
「ありがとう、まー君」
涙で濡れた夏菜の顔に微笑みが宿った。
久方ぶりに見たその笑顔に、雅人は甘いときめきを覚えた。
雅人と夏菜はしばらく見つめ合ったあと、どちらからともなく顔を近づけた。
そして、互いの唇を重ね合わせ、長いキスを交わした。