星の回廊

僕は息をきらせながら学校の屋上のドアを開けた。
身を切るような冷たい風が僕を襲う。僕は両の腕で自分の体をさすりながら中へ進んだ。
フェンスのそばに僕が探していた少女がいた。
少女は長い髪を風の中で躍らせながら、じっと天を見上げていた。その先にあるのは寒天にあまねく星々で、その小さな姿を大きく見せるかのようなきらめきを放っている。
このとき、僕は彼女の瞳の様子がいつもと違うことに気づいた。普段、星を見るときの瞳は星たちと同じような輝きをしている。なのに、今日はその輝きがない。まるで星の出ていない夜空のような色を瞳の奥にたたえていた。
僕は一瞬声を掛けるのをためらったが、逆に何があったのか知りたいという気持ちがあったので、少女のもとに歩み寄った。
「トリシア、やっぱりここにいたのか?」
僕の声に反応し、少女が驚いた様子でこちらに顔を向けた。
トリシアというのは少女の愛称で、正式な名前ではない。本当の名前はベアトリス=アリエステートといい、こことは違う世界にある新十三王国(ネオ・サーティーン)にある新牡羊王国(ネオ・アリエシア)のプリンセスだったりする。そう、彼女は今でこそ僕の家の居候という立場なのだが、もとをただせば、やんごとなき家の出身なのである。
「勇作様、もしかして私を探していたのですか?」
「ああ、一緒に帰ろうと思ったらトリシアがいなかったから、多分ここにいるんじゃないかと思って来たんだ」
「そうだったんですか、すみません、余計な手間をかけさせてしまって・・・」
トリシアは申し訳なさそうに謝った。
「いや、そんなことはどうでもいいんだ。それより何かあったの?なんかいつものトリシアじゃないような気がするんだけど・・・」
「い、いえ、何もありません・・・」
その問いかけにトリシアが目を伏せたのを僕は見逃さなかった。
「いや、そんなことないはずだよ。だって、いつも星を見るときのトリシアの目とは明らかに違っていたし、今も何かありますって目をしていたよ。何か悩みがあるのなら相談に乗るよ。それとも、僕じゃ相談相手にならないかな?」
トリシアはじっと僕の顔を見たあと、小さな口を重く開いた。
「実は星を見ながら、私のいた世界のことや他のプリンセスたちのことを考えていたんです。みんな元気にしているのかなとか、お父様やお母様はどうしているのかなとか思っていたんです。でも、自分でこの世界に残るって決めたのに、こんなこと考えては駄目ですよね」
トリシアはそう言ってか弱い微笑みを見せた。それが小夜風で揺れる彼女の体のように儚くて、僕は万力で胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
トリシアはこの世界に留まったがために、帰るべき故郷はもちろんのこと、家族や友人、王女として保障された生活など多くのものを失ってしまった。
それに引き換え、自分は何ひとつとして失っていない。逆にトリアスというたったひとつのかけがえのない存在を手にすることができた。
ひとつを手にするために多くのものを失った少女。
何も失うことなく、さらなる幸せを手にした自分。
こうして考えると、ふたりの境遇はまったくの正反対で天と地の差があった。
僕は今さらながら気づいた。ひとりだけ絶頂の幸せに浸りきっていたことを。それゆえにトリシアのうちに秘められた苦悩を知ろうとしなかったことを。なんて身勝手で馬鹿なのだろうかと己自身を責められずにはいられなかった。
「そんなことないよ。誰だって遠く故郷を離れてしまったら同じ気持ちになるよ。僕だってトリシアと同じ立場だったら、きっと同じことを考えるよ」
そう言った僕自身にさらなら憤りを覚えた。もっと気の利いた言葉をかけたいのに、もっとトリシアの心を癒せるような態度をとりたいのに、それらがまったくできない。情けない気持ちと腹立たしい気持ちが胸の中でぶつかり合い、嵐となって猛り狂った。
「勇作様・・・」
トリシアの瞳が涙で揺れた。久しぶりに見た彼女の涙だった。
胸が張り裂けんばかりの痛みに背中を押され、僕は考えるよりも早くトリシアの華奢な身体を引き寄せた。
「トリシア。悲しかったら我慢せずに泣いたらいい。ホームシックで泣くのは悪いことじゃないから」
「勇作様・・・勇作様・・・!」
トリシアは僕の胸の顔をうずめてすすり泣いた。まるで今まで溜めていた悲しみを一気に解き放ったような泣きかただった。
僕はトリシアの背中を軽く押さえながら、髪の毛をそっと撫で続けた。これが今の僕にできる精一杯だった。
それから10分ほど経ったところで、トリシアが泣き止んだ。
「勇作様・・・ひとつわがまま言ってもいいですか?」
「どんなことかな?」
身体を預けたままでトリシアに向かって優しく尋ねる。
「もし、また私が向こうの世界のことを思い出したら、勇作様のところに行きますから、そのときはこうして私を抱きしめてくれませんか?」
この状況でそう言われたら、出す答えはひとつしかなかった。
「ああ、もちろんいいとも。僕じゃあまり役に立たないかもしれないけど、それで少しでもトリシアの気持ちが晴れるのならお安いごようさ」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
トリシアは僕の背中に細い両腕を回した。
「勇作様、確かに私はまだ向こうの世界のことも気にしていますけど、この世界に残って本当によかったと思っています。だって、この世界には私の大好きな勇作様がいますから・・・」
「トリシア・・・」
彼女の言葉に僕の全身は火がついたように熱くなった。
「勇作様・・・私だけの勇者様・・・これからもずっと一緒にいてください。約束です・・・」
「もちろんこれからもずっと一緒にいるよ、トリシア」
僕は気恥ずかしさで心臓がバクバクしながらも力強く答えた。
そのとき、腕の中にいるトリシアから変わった呼吸音が聞こえてきた。
「トリシア?あれっ、まさかこのまま眠っちゃったとか?」
僕が視線を落とすと、穏やかな表情で寝息を立てているトリシアがいた。ここまでよほど気を張り詰めていたのだろう。無防備で眠る彼女は、半分本気で襲ってしまいたくなるくらい可愛かった。
「お姫様をおんぶしながら夜空の下を歩く勇者っていうのも悪くないか」
僕は苦笑しながら満天の星を見上げた。
星たちは先ほどよりもまばゆく輝いていた。