ねこかみっ

トラブルというのは、何の前触れもなく突然起こる。
「熊だあー!熊が出たぞー!」
とまあこんな感じだ。もっとも、街中に熊というのは滅多にないケースだが。っていうか、まず普通はあり得ない。しかし、これもトラブルってやつである。
私、笹瀬川佐々美がそんな声を聞いたのは、部活を終えて帰る途中だった。
「熊ですって?」
「そんな馬鹿な。だって、ここは街の中だよ」
「きっとただのでまかせだよ」
「それにしては声が真剣だったよ」
私の後ろにいた後輩たちがいっせいに騒ぎ出す。
「声のしたほうに行ってみましょう」
私は好奇心にかられて言った。
「佐々美様、本気ですか?」
後輩のひとりが驚き顔で私を見た。怯えた顔がなかなか可愛いわね。
「ここで本当かどうか言い合っても仕方ないから、実際にこの目で確かめればいいでしょ」
「そうですけど、本当に熊だったら危ないですよ」
と別の後輩。
「遠くで様子を見るだけだから大丈夫よ。怖ければ、あなたたちはそのまま帰っても構わないわ。もっとも、あなたたちが私ひとりを危険なところに行かせるなんて思っていないけどね」
他意を含んだ視線を後輩たちに向ける。
「もちろんです!私たちはどんなときも佐々美様と一緒です!」
「私たちは佐々美お姉さまに一生ついて行きます!」
「先輩となら地獄でもOKです!」
息巻く後輩たち。文句なしに満場一致だった。
「ありがとう。あなたたちは本当にいい子ね。大好きよ」
予想どおりの言葉に私は満足した。


声の発生源に向かうと確かに熊がいた。何故、こんなところにいるか分からないが、目の前にいるのは間違いなく本物の熊だった。大きさは2メートル弱。一般的な成人のヒグマだった。
熊が街中に堂々といることじたい驚愕の出来事だったが、それ以上に驚くべき事実があった。熊のすぐそばに私と同じ学生服を着た少女がいたことである。
あの子は・・・!
瞬時のうちに私の興味が熊よりも少女のほうへと向かった。
熊と対峙している子を私はよく知っていた。その子の名は棗鈴。忘れたくても忘れられない、いや忘れてはいけない相手だった。この私に2度も屈辱を合わせた女だからだ。
あのときのことを思い出すたび、情けない気持ちになる。だが、今はそんな過去に感慨を抱いている場合ではなかった。
あの子ったら、何やってるの?まさか熊とやり合うつもりじゃないでしょうね?
だとしたらあまりにも無謀すぎる。素手で熊に勝てるわけがない。
それなのに何故?
だが、すぐに棗鈴が動けない理由が分かった。それは彼女の足もとにあった。そこにいたのは小さな子猫たち。そう、棗鈴はこのか弱き猫たちを守ろうとしていたのだ。
私は熊の前に進み出た。
「佐々美お姉さま!近づいちゃダメです!危ないですよ!」
後輩の言葉を意図的に聞かなかったことにしてさらに歩を進める。
「棗鈴!今回だけは特別に手を貸してあげるわ。言っておくけど、別にあなたのためじゃなくて、そこにいる子猫たちのために助けるだけだから勘違いしないでよ」
「・・・分かってる」
鈴は小さく返答した。
「誰かソフトボールを持ってる?」
「あ、私持っています」
私の問いにショートカットの後輩が手を挙げた。
「それ貸してちょうだい」
「分かりました」
後輩が鞄から取り出して投げたソフトボールを私は両手で受け取った。
「いい、私が隙を作ってあげるから、あなたはそのチャンスをうまく活かしなさい」
「分かった」
「じゃあ、やるわよ」
私は投球モーションに入った。
「佐々美先輩!頑張ってください!」
「佐々美お姉さま!しっかり!」
「佐々さま、愛してます!」
「笹瀬川さ、あうっ、ひたかんひゃった・・・」
後輩たちが思い思いの声援を私に送ってくれた。中には微妙な声援もあった気もするが、ご愛嬌ということにしておこう。
「これで決めてやる!シャインライズボール!」
私は渾身の力を込めてフェイバリットボールを放った。球の躍動感を表すかのように私の体とともにスカートがふわりと宙を踊った。
球は地面すれすれに飛行し、熊の足もと付近で急上昇して狙いどおり股間に命中した。
熊が咆哮を上げながらその場にうずくまる。そこを狙って鈴が熊の頭にハイキックを見舞った。この一撃で熊はKOした。その瞬間、周りにいた野次馬から驚嘆と感激の声がいっせいに上がった。
私は大きく息を吐いた。どっと疲れが出る。正直いってここまでうまくいくとは思っていなかったので、一気に緊張の糸が切れてしまった。
「あの大きな熊をハイキック一撃で倒すなんてさすがね」
私の褒め言葉に対してあの子は無表情のままだった。相変わらず愛想のない子ね。ここはお礼のひとつぐらいいうものじゃない。そっちがそういう態度で出るのなら・・・
「でも、あなたって見かけによらず、ずいぶん可愛い下着をはいているじゃない」
私は皮肉たっぷりの笑みを送った。
「・・・!」
鈴は驚愕の表情を浮かべたあと、瞬時にこれでもかというぐらい顔を真っ赤にさせた。それは彼女が初めて見せる表情だった。
そう、私は見てしまったのだ。彼女のスカートの中を。彼女がはいていたのは猫の絵をプリントした下着だった。言っておくが、好き好んで見たわけではない。あの子がハイキックを繰り出したときに、たまたま見えてしまったのだ。なので、自分に百合の気があるとは思わないでほしい。
あら、思った以上に効果があったみたいね。
予想を上回る鈴のリアクションに私は心と顔の中で勝利宣言をした。どう、棗鈴、この勝負、私の勝ちよ。なんの勝負かは分からないけど、とにかく私の勝ちだからね。
ところが・・・
「あ、あんただって私と同じものをはいてた・・・」
「え・・・」
今度は私が固まる番だった。一気に全身が熱くなり、たちまち顔が朱色に染まっていくのが分かった。
「もしかして、私のも見たの?」
「ソフトボールを投げたときに見えた」
「な、な、な・・・」
頭が真っ白になってあとの言葉が出てこない。
スカートのまま投げるんじゃなかった・・・
激しく後悔するがもうあとの祭り。残念ながら現実には巻き戻しもリセットボタンもないので、ありのままを受け入れるしかなかった。
私は恐る恐る後ろにいる後輩たちに目をやった。
「佐々美様って、ああいう子供っぽいのが好きなんだ・・・」
「あの佐々美先輩があんな下着をはいているなんて意外すぎるよねえ・・・」
「でも、そんな佐々美お姉さまもステキです・・・ぽっ」
「私も同じものをはいちゃおうかな・・・」
と好き放題に言っている。嫌な予感がばっちり的中してしまった。
まったくこの子たちは・・・
私は肩を震わせながら足早に後輩のもとへ向かった。
「さ、佐々美様!」
後輩のひとりの声を合図に全員が黙り込む。
「あなたたち、何も見ていないわよね?」
わざと凄みを利かせた口調で言う。もちろん、目でもプレッシャーをかけているのはいうまでもない。
絶対に見てなかったことにしてやるわ!
私も必死だった。もし、このことが学校中に広まってしまえば、堂々と登校できなくなってしまうからだ。それだけはどんなことをしてでも避けたい。
「み、見ていません!私たちは佐々美様がはいていた猫の下着なんて見ていません!ね、みんな」
「え、ええ!佐々美お姉様が猫のパンティーをはいていらっしゃることなんて知りません!」
「わ、私も佐々美先輩のスカートの中に猫がいるなんて知りませんでした!」
慌てふためきながら答える後輩たち。
「ちょっと!大声で変なことを口走らないの!今すぐ記憶から消しなさい!消さないと承知しないわよ!」
私は顔を真っ赤にして後輩に詰め寄った。これ以上、恥をさらすような真似をしてもらっては困る。これでも十分すぎるほど恥をかいているのだから。
「わ、分かりました!見なかったことにします!」
私の怒りのオーラに圧倒されたのか、後輩たちは顔を強張らせながらいっせいに直立不動の姿勢をとった。ふう、とりあえずはこれでいいだろう。
ようやくひと息ついたところに、私の足もとで猫の鳴き声がした。鈴のところにいた子猫だった。
「あら、もしかして無愛想なご主人様の代わりにお礼を言いに来てくれたのかしら?」
私は微笑みながらその場にしゃがんで、子猫の頭を数回軽く撫でた。やっぱり猫は可愛いわね。私は断然猫派なのよ。
子猫は私の言葉に応えるかのようにもう一度鳴いて、主のもとへと戻っていった。
鈴は私の顔をじっと見つめた。私も彼女を見つめ返す。いつの間にか喧騒の中にふたりだけの世界ができていた。確かに因縁めいたものはあるが、だからといって憎しみの感情はない。しかし、ただ気に入らないという気持ちは多分にある。恐らく、向こうも同じだろう。お互い様というやつだ。
不意に鈴が顔を赤らめた。それにつられるかのように私の頬も熱を帯びる。ちょっと、なんで急に顔を赤くするのよ?私まで急に恥ずかしくなってきたじゃない。
このあと、鈴は何も言わずに子猫たちを引き連れて立ち去った。本当に愛想のない子ね。まあ、今に始まったことじゃないけど。
「フン、今日はたまたま機嫌がよかったから助けただけよ・・・」
私は小さくなっていく背中に向かって言った。