六花の決意
杏は公園内にある柱状の時計にもたれかかるように立っていた。
頭上にある時計の針を見る。針は昼下がりの時間帯を指していた。この日は時計の回転が遅く感じられた。
ふたたび視線を戻すと、友人である月島小恋が小走りでこちらに向かっていることに気づいた。
「ごめーん、杏、待った?」
「いいえ、私も今来たところよ」
まるで恋人同士の会話みたいだと心の中で苦笑する。
「今日はすごく寒いよね」
小恋は両手に白い息を吹きかけた。
「そうね。何でも西高東低の冬型気圧配置が強くなって、マイナス40度の寒気が流れ込んでいるらしいわ。だから、これからもっと寒くなるはずよ」
「へえー、そうなんだ。それじゃあ、もしかすると雪が降るかもしれないね」
雪花の来訪を期待しているかのような表情を見せる。
「そういえば、大事な話があるって言っていたけど、どんなことなの?」
「あ、えっとね・・・」
杏は口もとに人差し指を当てて間をとった。胸に鉛を置かれたような感覚に見舞われる。これから自分がする行動を考えると、躊躇せずにはいられなかった。だが、もう後戻りはできない。小恋を呼び出したことで、杏が組み立てた布石が最終段階に入ってしまったからだ。
「・・・私、明日のスキー旅行で義之に告白しようと思っているの・・・」
いつもの口調で言えるようにと細心の注意を払ったつもりだったが、わずかな声の震えがこぼれ落ちてしまった。
「え・・・」
小恋は驚きと困惑が混濁した顔で杏を見た。予想どおりのリアクションだった。
「そう・・・なんだ・・・」
彼女の瞳が次第に悲哀の色に染まっていく。
そんな小恋を見て、杏は息苦しさと喉の渇きを覚えた。
小恋が義之に淡い思いを寄せていたのは知っていた。知っていながら、杏は義之の恋人の座を奪おうとしていた。もちろん、うしろめたさはあった。ためらいもあった。しかし、それ以上の決意があった。だから、うしろめたさを振り払い、ためらいを断ち切った。すべては自分の思いを貫くために・・・
「杏ならきっと大丈夫だよ。可愛いし、しっかりしているし、きっとうまくいくはずだよ」
まったくもって予想どおりの展開だった。それ故に余計罪悪感が募っていった。
小恋は本当にいい娘だった。腹立たしくなるくらいに。感情をさらけだして罵倒してくれたほうが、こちらもかえって気が楽になるのに、どうしてしてくれないのだろうか。もっとも、それができれば、とっくの昔に小恋と義之はくっついているのだが。
ところが、その気持ちとは裏腹に、彼女の予測どおりの言動に安堵している。それだけではない。小恋の性格を防波堤として利用し、自らの目的を安全かつ無難に達成できるようにしようとしている。杏は思った。自分はなんて自己中心的で嫌な女なのだろうと。しかし、これだけはどうしても譲れなかった。
「でも、まさか杏が義之のことを好きになるなんて、思ってもみなかったよ」
「私が義之のことを好きになったらおかしい?」
杏は真剣な面持ちで尋ねた。ただし、本気で言ったわけではなかった。
「う、ううん、そんなことないよ。変なこと言ってごめんなさい」
小恋は杏の言葉に慌てふためいた。
その様を見て、杏は小さく笑った。
「冗談よ。だから、謝らなくていいわ」
小恋の言うとおり杏自身も、こんなふうになるとは思ってもみなかった。
初めはただのクラスメイトで、親友の片思いの相手という認識しかなかった、だから、もうひとりの親友でもある花咲茜と一緒に小恋の恋を応援していた。義之のことになると、とたんにうろたえてしまう小恋の態度を面白がっていたというのもあったが、目的は常にそこにあった。
ところが、学園のクリスマスパーティーで人形劇をやることになり、その関係で義之と接していくうちに次第に惹かれていき、気がつけば特別な感情を抱くようになっていた。もちろん、初めはその気持ちを押さえ込もうとした。小恋のためにも、そうしなければと思っていた。だが、走り出した思いは時の流れとともに加速して、止めることができなかった。人を好きになるのは理屈ではないと聞いたことがあるが、まさにそのとおりだと身をもって実感した。
───ごめんなさい、小恋、あなたの気持ちは知っているけど、それでも私は義之の一番になりたいの・・・
杏は心の中でつぶやいた。
対峙するふたりのもとに無数の桜の花びらが舞い落ちる。杏と小恋の葛藤を洗い流そうとするかのように。気まずさはあるものの、たおやかな空気が流れた。
桃色の花弁とともに舞い降りた静寂を破ったのは杏だった。
「小恋、待っているだけじゃ何も変わらないわ。だから、私は動くことにしたの。何もしないで後悔するよりは、やって後悔したほうがいいから・・・」
「杏・・・」
小恋は愛らしさを秘めた瞳を少しだけ見開いた。
「今日は突然呼び出してごめんなさい。私の用事はこれで終わりだからもう帰るわ。明日の朝、遅れないようにね」
杏は小さく手を振って、大切な親友に背を向けた。
それぞれの思いとともに時が静かに動き出した。