秘密の特訓

棚の上にあるクマのぬいぐるみに一枚の少年の写真が貼り付けられている。そんな変わったぬいぐるみをじっと見つめるひとりの少女がいた。丁寧に切りそろえられた短い髪の右側に白いリボンを結んでいる少女で、顔を朱色に染めながら落ち着きなさげに体を左右に揺らしていた。
その傍らには長い髪をした少女が対照的な雰囲気を漂わせながら立っていた。彼女と少女は同じ顔立ちをしていた。そう、ふたりは双子なのだ。
「椋、いつまでそうしている気?」
長い髪の少女───藤林杏は深いため息をついた。
「ううっ、お姉ちゃん、やっぱりデートしてくださいなんて、恥ずかしくて言えないよ」
椋は今にも泣き出しそうな顔をして言った。
「何言ってるの。椋はアイツの彼女なんだから、今さら恥ずかしがることないじゃない」
少し呆れた様子で2度目のため息をつく。もともと恥ずかしがり屋なのは知っていたが、ここまでなると問題視したくなる。恋人同士なのにデートに誘えないというのは、前代未聞というしかない。ここまでの恥ずかしがり屋というのは、一種の天然記念物ものだといえよう。
「確かにそうだけど・・・ねえ、お姉ちゃん。このあいだみたいについて来てよ」
「何言ってるのよ。あのときは初めてだから一緒に行ってあげたけど、いつまでもそんなわけにはいかないでしょ。どうしても言えないっていうのなら、代わりに私がデートしちゃうわよ」
「そ、それは駄目!」
椋は少し怒ったような口調で言った。
「ならさっさと言いなさい。ほら、早く」
「う、うん」
姉にうながされ、ふたたび写真と向かい合う。
「あ、あ、あ、あの、あの・・・」
顔を真っ赤にさせて必死の言葉を紡ぐ椋。杏はそんな妹を黙って見守った。
「今度の日曜日、わ、わ、わ、私、私とデ、デ、デ・・・」
ここで椋の動きが完全に止まった。その様はまるでオーバーヒートして機能を停止したロボットのようだった。
杏は部屋の片隅にある壁掛け時計を一瞥した。椋が沈黙してからすでに15分が経過している。これ以上待つのは無意味だと判断した。
「椋!」
杏は勢いよく背後から椋に抱きついた。
「きゃあ!」
「そんなに緊張していたら駄目よ。まずはリラックスする特訓が必要みたいね」
と言って妹の体をくすぐった。
「ち、ちょっと、お姉ちゃん!アハハハハ、くすぐったいからやめて!」
椋が笑いながら必死に体をくねらせる。本人は抵抗しているつもりかもしれないが、逆に杏のいたずら心を刺激する結果となった。
「ほらほら、まだ体が硬いわよ。これならどうかしら?」
杏は服の上から妹の胸をもみ始めた。
「きゃう!」
椋は短い悲鳴を上げて体を大きく反らした。
───やっぱり椋の胸って大きいわね。それに体も柔らかいし、我が妹ながらいい女だわ。
同性としての嫉妬心を抱く。同じ時に生まれた姉妹なのに、こうも差が出るものなのかと思ってしまう。杏は妹のうなじに息を吹きかけ、両手の動きを激しくさせた。
「ひゃう!そこは駄目!お姉ちゃん、お願いだからもうやめて・・・これ以上されると変になっちゃう」
椋は弱々しく懇願した。
「ちゃんと言えるって約束できる?」
「う、うん、約束する」
「よろしい」
杏は妹を解放した。少しばかり名残惜しく思ったのはここだけの話だ。
椋は息遣いを乱したまま、三度目の挑戦を行った。
「今度の日曜日、わ、わ、わ、私、私とデ、デ、デ・・・」
またもや言葉を詰まらせ、石像と化す。
「椋、今度同じことをやったら、もっとすごいことをしてあげるわよ」
デジャヴの兆しが見え始めたところで、杏は笑顔をたたえながら両手をわきわきさせた。
「ひいっ」
それを見た椋の顔がたちまち蒼白になる。
「今度の日曜日、私とデートしてください!」
椋は早口で一気にまくしたてると、顔から火を吹きながら脱兎のごとく部屋から飛び出した。
あまりの速さに、杏はあっけにとられた。目にも止まらぬ速さとは、まさにこのことだった。
「まあ、一応言えたからいいか」
杏は苦笑してぬいぐるみのほうに目をやった。そして、例の写真の少年と目が合った瞬間、彼女の顔から笑みが消えた。そして、胸が締め付けられるような気持ちにかられた。
今、この瞬間に抱いた気持ちは、現実の世界ではどうすることもできない。それは痛いほど分かっている。分かっているのに、どうしてもこの気持ちを抑えることができなかった。
椋から写真の彼のことで相談を受けたとき、杏は妹のために恋のキューピッドに徹することを選んだ。自らの思いを深い海に沈めたのは、大切な妹を傷つけたくなかったからである。だから、後悔なんてしていない。してはいけないのだ。しかし・・・
───もし、あのとき、私が自分の気持ちを正直に貫いていれば・・・
そう思った瞬間、杏は大きくかぶりを振った。今となってはせんなきことだ。
杏は周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、足早にぬいぐるみに近づいた。その距離が縮まるにつれ、狂おしいほどの恋慕の情が駆け巡る。もはや心を束縛していた後ろめたさや背徳という鎖は断ち切られていた。
「これぐらいはいいよね・・・」
杏は切なげなつぶやきを漏らすと、写真の中の少年にキスをした。現実の世界の彼は妹に譲ったが、自分の心の中と夢の世界にいる彼は譲らない。今度は夢の中での彼に会いたいと切に願いながら写真を手に取った。