硬くて苦い愛の試練
小石ほどの大きさの揚げドーナッツは、彼の妻である早苗が考案した新作だった。名前はげんこつドーナッツ。実際にげんこつせんべいをそのままドーナッツの生地に包んで揚げた斬新な商品だ。
秋生は意を決してそのドーナッツをひとつ手に取り、口にした。
「か、硬いな・・・」
奥歯が悲鳴を上げる。さらに力を入れると、鈍い音とともにようやく半分に砕けた。一瞬、歯が折れたのではないかと心配したが、そしゃくする感触に異常はなかった。しかし、そのあとすぐに苦い味が口中に広がり、秋生は顔をしかめた。
「ぐあっ、なんで苦いんだ?普通、ここはまろやか醤油の味がするだろ」
一概にいえない部分もあるが、せんべいといえば基本は醤油味だろう。
秋生はこれをどうするか思案した。少なくとも店頭には並べられない。これについては早苗が奇抜な発想で新作のパンを作るたびに起こっているので、今さら困ることではない。問題はこいつをいかにうまく処分するかということである。捨てるのが一番てっとり早いのだが、それは一生懸命作っている早苗に申し訳ないのでできない。彼女がみんなのために考えてしているのを知っているので、その好意を無駄にはしたくないのだ。
となるといつもみたいにご近所のお年寄りに配るという方法もあるが、今回はさすがにまずい気がする。こんな硬いドーナッツを食べさせると、お年寄りの弱い顎は簡単に砕けてしまうだろう。それならまだしも、そのショックで天に召される可能性だってある。そうなってしまっては店がつぶれてしまうので、今回に限ってはやめたほうが無難だ。
となると身内で食べるしかないのだが、当然のことながら娘の渚と妻の早苗は除外される。それで消去法で残るのは必然と秋生だけとなる。その選択肢は最終手段なので、ひとます保留とした。
───そうだ、あいつに食べさせよう。
秋生の頭の中でひとりの少年の顔が浮かび上がった。
少年は渚のボーイフレンドで確か名前は「大宇宙マンモス」だったと思う。我ながら名案だと自画自賛したそのとき、店のドアに付けている鈴が鳴り、その少年が姿を現した。これぞまさしく待ち人来たりというやつである。
「おおっ、よく来たな。ちょうどよかった」
「帰ります」
「おおいっ、ちょっと待て!」
秋生は慌てて、きびすを返して歩き出そうとした少年の肩をつかんだ。ここで去られてしまってはせっかくの計画が台無しだ。
「なんで帰ろうとするんだ?」
「なんでって、嫌な予感がしたからだ」
少年はきっぱりと答えた。
「ぐっ、鋭い奴め。そうだ、おまえ、渚に用があって来たんだろ?うちの渚とイチャイチャしたかったら、そこの揚げドーナッツを全部食べていけ。全部食べなければ、渚のもとへは行かせん」
秋生はそう言って、レジの付近に置いてあるトレイを指差した。
「確かに渚に用はあるけど、そのためになんでドーナッツを食べなきゃならんのだ。だいたい、あれって早苗さんが作ったものなんだろ?それを知っていて食えるかよ」
「なんだと!おまえは未来の母親が作ったものを食べられないと言うのか!未来の父親の言うことがきけないというのか!あ、言っておくが俺はまだおまえを息子と認めたわけじゃないぞ」
「言ってることが矛盾してるぞ。それを言うなら、オッサンこそ夫として責任を持って早苗さんの作ったものを食べる義務があるだろ」
少年はため息をついて反論した。
「んなことはてめえに言われなくても分かってる。ただなあ、あいつの新製品だけは駄目なんだ。なんで他の料理はうまいのに、店に使うパンやドーナッツは極悪なまでにまずいんだろうな。特に今回のはいつも以上の出来で、死人が出てもおかしくないほど極悪なものだから、俺のかわりにおまえが食え」
こちらも負けじと反論する。年端も行かない若造に痛いところをつかれたので、無性に情けなくなった。
「おい、オッサン。後ろに早苗さんがいるんだけど・・・」
「なにいいい!」
少年の言葉に秋生は勢いよく後ろを振り返った。
そこには目にいっぱいの涙をためた早苗の姿があった。それから涙が一滴床に落ちた瞬間、早苗は口もとに手を当てながら家の奥へ駆け出した。
「早苗ええええ!俺はおまえのすべてが好きだああああ!」
秋生はドーナッツが乗ったトレイを持つと、一目散に家の奥へと飛び込んだ。
早苗は居間のところでうずくまりながら泣いていた。
「早苗!おまえの新製品は最高だ!」
揚げドーナッツをひとつ手にしながら大声で言う。
「ぐすっ、でも、私のドーナッツが極悪までにまずいって言いました」
両手で顔を隠しながら嗚咽まじりにいう早苗。
「う、それは極悪なまでにおいしくて、すぐに品切れになりそうでまずいなってことだ」
「でも、秋生さんは死人が出るって言いました」
「い、いや、それはうますぎて死人が出るかもしれねえってことだ」
「本当ですか?」
ここでようやく早苗が顔を上げて、涙で濡れた瞳をこちらに向けた。
───くうっ、泣いている早苗も可愛いぜ。とか言ってる場合じゃなかったな。
秋生は気を取り直すと、げんこつドーナッツをひとつつまんで口の中に放り込んだ。
「いやあ、本当に早苗が作ったドーナッツはおいしいぜ。危うく地獄・・・じゃなかった天国に行きそうになったぞ」
岩を噛み砕くような音を立てながら渾身の笑顔を見せる。引きつった笑みだが、それそのものが崩れていないだけよかったといえる。もっとも、いつまでこの作り笑いが持ちこたえられるか自信はなかったが。男として、夫としての威信が今の秋生を支えていた。
その甲斐あって、早苗から笑みがこぼれた。秋生はほっと胸を撫でおろした。
「よかった。それじゃあ、買えないお客さんが出ないように、今からもっと作りますね」
そう言うが早いか、早苗は立ち上がって工房のほうに向かっていった。
「早苗・・・無邪気で前向きなおまえも大好きさ・・・」
ひとり残される格好となった秋生は、小躍りしながら遠ざかるポニーテールを眺めながら力なく肩を落とした。