Memorise Off2nd~Cross aubade~

第2章 気まぐれな燕が舞い降りるとき

広大な空に風が吹いている。
風は方角を常に変えながら海原を駆け抜け、どことなく去っていく。
今日の風は気分屋だった。
智也は早朝から海にやって来て、白い砂浜の上で立ち尽くしていた。
はるか前方に見える地平線は、太陽が昇り始めているせいか、次第に明るい白みを帯び始めていた。
もうすぐ朝日が昇り、1日が始まる。それは新しい日常の幕開けでもある。
しかし、今の智也には変わらない日常の始まりにしかすぎなかった。
罪の意識がもたらす苦痛の日々───それは智也が大切なひとを失ってからずっと続いていた。
───彩花を殺したのは俺なんだ・・・俺が全部悪いんだ・・・
昨夜、見た夢が否応なしに思い出され、ふたたび激しい胸の痛みを覚える。
そのときだった。
「おはよう」
不意に女性の声が耳に入り、智也は後ろを振り返った。
そこにいたのは20代前半の女性だった。
独特な形をしたつややかな黒髪。
透き通るような白い肌。
顔立ちも整っており、外見だけを見るならかなりの美人といえる。
しかし、最初の挨拶の口調に抑揚感がなかったせいか、冷たく暗い印象が先入観として残った。
「おはよう」
ふたたび女性が挨拶をする。
「誰だ、あんたは?」
「おはようは?」
「・・・」
会話がまったくかみ合っていなかった。このままでは、何を言っても平行線をたどるのはまず間違いない。
───なんなんだ、この女は・・・
智也の口から自然とため息が漏れた。
「もしかして、『おはよう』を知らないの?」
女性が首をかしげる。
「んなわけないだろっ!」
智也の語気が思わず荒くなる。
「うそ。だって、私が『おはよう』って言ったのに、何も言わないじゃない」
「ああ、分かった分かった。言えばいいんだろ言えば。おはようっ!ほら、これでいいだろ!」
女性に疑いのまなざしを向けられ、智也がやけ気味に言い放つ。
「なんか気持ちのいい挨拶じゃないけど、まあ、いいわ」
女性は一応納得したようだった。
その反応を見て智也は、これで用件は終わったと判断した。
「もう挨拶は終わったから、これでいいだろ。俺は今、ひとりになりたいんだ」
「どうしてひとりになりたいの?」
またまた女性から疑問の声が上がる。
「どうしてって、見ず知らずのあんたに答える義務はない」
「あ、そういえば自己紹介がまだだったわね。私は南つばめ。東西南北の南に、ひらがなでつばめ。あなたは?」
「あ、俺は三上智也・・・じゃなくて!」
智也は思わず頭を抱えてしまった。
どうやらこの女性とは、正常な会話が成り立たないようになっているらしい。
会話の歯車を狂わせ、相手に主導権を握らせないというのは、昔の智也がよくやっていたことなのだが、まさかその逆をやられるとは思ってもみなかった。
───これが年上の貫禄なのか・・・
相手の強大さを感じる智也。
亀の甲より年の劫とはまさにこのことだ。
このままでは完全に女性のペースにはまってしまう。
ここは大人しく引き下がるのが賢明だと思い、智也は無言のまま歩き出した。
女性は一瞬、あっけにとられていたようだが、すぐに後を追いかけてきた。
智也は相手を見ないようにしながら歩くペースを速める。
しかし、相手もさる者、ぴったりとくっついて離れなかった。
このままではらちが明かないと思った智也は、遂に歩みを止めた。
「おい、なんで俺のあとをついて来るんだ」
「別について来たわけじゃないわ。たまたま、行き先が同じ方向だっただけよ。それに、私がどこをどう歩こうと智也君には関係のないことでしょ」
「くっ・・・」
智也はつばめの言葉に反論できず、口を閉ざした。
「・・・分かった、俺の負けだ。降参する」
「別に勝負なんかしてないわよ」
つばめがそう言ったのに対し、智也は首を横に振った。
「いや、俺の完敗だ。で、俺にどんな用があるんだ?」
「別にこれという用件はないわ」
「は?なんだそりゃ。それじゃ、俺はこのまま帰るけど、いいよな?」
予想外の答えに智也は拍子抜けした。
「あ、ちょっと待って・・・」
突然、つばめは何かを思い出したように、ポケットから黄色の球体を取り出すと、それを智也に渡した。
「これあげる」
「なんだ、これは?」
受け取った物を見て、智也は目を白黒させた。
「檸檬、知らないの?」
鸚鵡返しに尋ねる。
「いや、そうじゃなくて、なんでこんなものを俺に渡すのかっていう意味だ」
「お近づきの印よ。それじゃ、私はこれで失礼するわね」
つばめはそう言い残すと、ゆっくりと歩き始めた。
「おい、ちょっと待てよ・・!」
智也は慌ててつばめを呼び止めようとしたが、彼女はその声を無視するかのように去って行った。
「ったく、なんなんだ、いったい・・・」
智也はつばめがいなくなった方向と手にした檸檬を交互に見渡した。
つばめという名の女性との邂逅は、智也にとって本当に不思議なものだった。
いや、不思議というより奇妙といえるかもしれない。
何も中身のない会話が続き、あげくの果てには何故か檸檬をもらってしまう。
こんな出会いなどまず普通ではあり得ないだろう。
智也も型破りの存在だと自負できるほどの行動力を持っていたが、その彼でさえつばめはそれ以上だと断言できた。
それ故、智也の頭の中には「南つばめ」という人物が鮮明に残った。
恐らく、忘れることはない。それに、彼女とはまた会える気がしてならなかった。
もっとも、これはただの予感だけであって、根拠は何もないが・・・
「これ、どうしろっていうんだ・・・」
智也は檸檬の処置に困惑した。
その檸檬からかすかに漂う酸っぱい芳香が智也の鼻をくすぐる。
智也は檸檬を鼻の前まで近づけたあと、それを上着のポケット仕舞い込んだ。
辺りを見渡すと、すでに太陽が昇り、空が白から水色に変わりつつあった。
空の色はいつもと同じだった。
また1日が始まる。
ところが、今日はいつもの1日と違っていた。
気まぐれな燕との出会いが小さな波紋をとなり、智也の日常と心に微妙な変化をもたらし始めていたからである。
智也は芽生えた変化に戸惑いを覚えながら、海と空に舞う風を感じていた。