ファーストプレリュード

「ただいま」
外出先から総次が戻ると、リビングのほうから青葉がやって来た。
「おかえりなさい、総次さん。ちょうどよかった」
「ん、どうかしたの、青葉ちゃん?」
「実はリビングの棚の上に置いてある箱を物置まで運んでもらいたいんですけど、いいですか?」
「ああ、そんなことなら朝飯前だよ」
総次の答えに、青葉が嬉しそうな表情を浮かべる。
「よかった。それじゃあ、私と一緒に来てください」
青葉は総次と一緒にリビングに向かった。
「あの棚にあるダンボールです」
と言って、白い戸棚に置かれたふたつのダンボールを指差す。
「あれだね。あの高さならこのまま取れるな」
総次は背伸びしながら、ダンボールを少しずつ手繰り寄せ、床の上に降ろすことに成功した。
「ありがとうございます、総次さん。ひとつは私が持ちますね」
青葉は手前にあったダンボールを持ち上げようとした。
「あ、青葉ちゃん、それかなり重いから俺が持つよ」
「これぐらい、へ、平気ですから・・・あ!」
と答えてダンボールを抱えた瞬間、その重量に耐えきれず、青葉の体が後ろのほうによろめいた。
「あ、危ない!」
総次はとっさに青葉の背後に回りこんで、ダンボールごと彼女の体を支えた。
青葉の長い髪から漂うシャンプーの香りと密着した体に伝わる柔らかい感触に、胸が高鳴り出す。
「す、すみません、総次さん・・・」
青葉は顔を真っ赤にしながら慌てて総次から離れた。
総次は少し残念な気分にかられたが、すぐ気を取り直して青葉に声を掛けた。
「怪我はないかい?」
「はい、大丈夫です」
こくりとうなずく。
「よかった。それじゃあ、これを物置へ持って行くから、場所を教えてくれないか」
「あ、そうですね。それじゃあ、案内します」
「よろしく頼むよ」
総次はダンボールを重ねて持ち上げると、青葉と一緒に玄関から外に出て、庭の一角にある物置へ向かった。
物置までたどり着くと、青葉が横開きの戸を開けた。
「総次さん、この物置の空いている場所に置いてください」
「了解」
総次は奥まで入り、スペースを確保すると、そこにダンボールを置いた。
「お疲れ様でした。おかげで助かりました」
物置から出てきた総次に向かって、青葉が丁寧にお辞儀をした。
「お礼なんていいよ。もし、他に何か力仕事があるなら、そのときは遠慮せずに言っていいよ」
総次は軽く右腕を叩いて言った。
「ありがとうございます、総次さん」
青葉が微笑む。
「総次さん、もしよかったら今からお茶しませんか?」
「いいね。肉体労働のあとにはうってつけだ」
青葉の提案に総次が同意を示す。
「それじゃあ、すぐ準備しますね」
こうして、ふたりはキッチンへ向かって歩き出し、ティータイムを取ることになった。
キッチンに入ると、すぐに青葉が紅茶とクッキーの準備を始めた。
いつもながらの手際のよさに総次が感心する。
「このクッキーって青葉ちゃんの手作りなのかい?」
「ええ。今日、学校で調理実習があって、そのときに作ったんです。ただし、味の保証はできませんけど」
「青葉ちゃんが作ったものなら、絶対においしいに決まってるさ」
総次は皿に盛られたクッキーをひとつつまんで口に入れた。
とたんに、総次の顔から自然と笑みがこぼれ始める。
「うん、すごくおいしいよ。さすが青葉ちゃんだね」
「よかった。作る時間が少なかったので、正直言って少し心配だったんです」
青葉はそう言って安堵の笑みを浮かべた。
「そういえば、こうして総次さんとゆっくりお茶を飲むの初めてですよね」
「確かに言われてみれば、そうなるかな」
総次はティーカップに入った紅茶を飲みながら答えた。
「総次さん、実は今だから言いますけど、総次さんがこの家に来ることを聞いてからしばらくのあいだ、どんなひとなのか心配で眠れなかった時期があったんです。でも、この家に来たのが総次さんみたいな優しい男のひとでよかったです」
青葉は両手でカップを持ったまま、軽くため息をついた。
「そう言ってくれると嬉しいよ。俺も、この家に来て本当によかったと思っている。みんな俺なんかのために親身になってくれるし、何より、青葉ちゃんのおいしい手料理が毎日、食べられるのが嬉しいよ」
総次の本心を知って、青葉の表情がぱっと明るくなった。
「そう言ってもらえると私も嬉しいです。総次さん、これからもよろしくお願いしますね」
青葉はそう言って微笑んだ。
「こちらこそよろしく」
彼女のとびっきりの笑顔を見た刹那、総次の心臓がトクンと大きく脈打った。
優しくて、家庭的で何でもそつなくこなす少女。
欠点らしいところは特に見当たらない。いや、むしろ、見つけるほうが至難の技だろう。
おまけに、美少女と呼ぶに相応しいほどの外見も持ち合わせているのだから、女性としての魅力は十二分に備えていると断言できる。
まさに非のうちどころがないとはこのことだ。
しかし、総次が水無月青葉に魅力を感じたのはまったく違うところにあった。
それは彼女が普段、表に出さない部分---弱さだった。
一見、完璧に見える青葉だが、その内面に女の子特有の弱さが隠されていることを総次は知っていた。
完全無欠の姿に隠された薄氷の心は、ほんの些細な衝撃で粉々に砕け散ってしまうだろう。
もし、そうなれば、彼女は2度と立ち直れなくなるのではないかとさえ思ってしまう。
そうならないように、なんとしても守ってあげたい。
いつしか総次は、青葉に対して特別な感情を抱くようになっていた。