ファーストプレリュード

第1章 水無月家の姉妹

「皐月町―、皐月町に到着しました。降りる方はお荷物等の忘れ物がないよう・・・」
電車がホームに止まり、車内アナウンスが流れる。それと同時に各車両のドアが開き、ここを目的地としていた人たちが、列を作って降り始める。総次は最後に降りると、荷物が入った大きなバッグを地面に置いた。
ホームにいた駅員の合図でドアが閉まり、電車は次の目的地を目指して動き出した。
総次が今まで暮らした霜月町を離れて約6時間--
ようやく新しい生活を送る場所にたどり着いた。
「ふう、やっと着いたか」
総次はため息をついて、大きく伸びをした。
今まで霜月町近辺しか行ったことのない総次にとって、初めての長距離移動は想像以上の疲労感をもたらした。
少しの間、ホームでくつろいだあと、総次は改札口を通り抜け、駅の外に出た。
駅前に出たとたん、総次は改めて自分が新天地へ足を踏み入れたことを実感した。
大通りを挟んだ正面には、大きな噴水と公園があり、子供たちが滑り台やブランコを使って楽しそうに遊んでいた。また、公園の東には10階建てのデパートと5階建てのCDショップ、その反対側にはアーケード街があり、多くの買い物客で賑わっていた。
霜月町とは比べ物にならないほどの発展ぶりと人間の多さに戸惑いながら、総次は東西に伸びる大通りを歩き始めた。
皐月駅から歩いて15分程が過ぎ、総次は閑静な住宅街の中に入った。
「確か地図によると、この辺りだと思うけど・・・家の名前は確か水無月だったな」
地図を見ながら、路地沿いに並ぶ家を一軒一軒確認する。ちょうど四軒目の家の表札が目に入った瞬間、総次は歩みを止めた。
「あった、ここだな」
総次は『水無月』という表札を確認して、これからお世話になる家を眺めた。
家は庭付きの2階建てで、建物の規模や土地の広さからして、以前住んでいた家よりも立派なのは一目瞭然だった。
--本当にここでいいのか?
あの父親の知り合いの家ということから、壁に穴が空いたあばら家を想像していた総次は急に不安を覚えた。
念のため、もう一度地図と表札を確認してみる。
やはり表札はどう見ても『水無月』としか読めないし、地図の印もほぼこの家の位置を示している。
やっぱりここで間違いはないはずだ。
このまま、迷っていてもらちがあかないので、総次は門を開けて、玄関の脇にあるインターホンのボタンを鳴らした。
「はい、どちら様ですか?」
スピーカー越しに女性の声が返ってきた。
「俺は、じゃなくて、私は伊倉総次と申しますが・・・」
「まあ、あなたが総次君ね。今、開けるからちょっと待ってね」
パタパタと床を歩く音がしたあと、ゆっくりとドアが開いて、中から30代前半くらいの女性が姿を見せた。長い黒髪がよく似合う、落ち着いた雰囲気を漂わせた美人だった。
「いらっしゃい、話は総大さんから伺っているわ。さあ、どうぞ中に入って」
女性は穏やかな笑みを浮かべて、総次を招き入れた。
「お、お邪魔します」
突然の美人の出迎えに、総次はすっかり舞い上がってしまった。
手入れの行き届いた廊下を歩き、リビングに案内されると、そこにはソファーに座っている姉妹の姿があった。姉はセミロングの真面目そうな女の子で、総次と視線が合うと、顔をうつむかせた。一方、妹のほうはショートカットがよく似合う女の子で、興味津々といった感じで、総次を見ている。ふたりともタイプこそ違うものの、母親に負けず劣らずの容姿をした可愛い女の子だった。
「ようこそ、水無月家へ。私がこの家をまかなっている水無月若葉といいます。このふたりは私の娘で、左が長女の青葉、右が次女の紅葉です。さあ、ふたりともご挨拶して」
「はじめまして、次女の水無月紅葉といいます」
紅葉はにっこり笑って軽くお辞儀をした。
「長女の水無月青葉・・・です・・・」
対照的に青葉は強張った表情を浮かべていた。
「はじめまして、伊倉総次といいます。よろしくお願いします」
総次も形どおりの挨拶をする。
「今、ちょうど夕食の準備をするところだから、それが終わるまで部屋でゆっくりしててね。紅葉、悪いけど総次君を部屋まで案内してあげて」
「うん、分かった。それじゃあ、私のあとについて来てください」
紅葉に連れられてリビングを出ると、2階にある一室に案内された。
「ここが総次さんのお部屋です」
そう言って紅葉がドアを開けた。部屋は6畳ぐらいの大きさで、ベッド、タンス、机、本棚が置かれていて、居候には十分過ぎるほどの部屋だった。
「すごくいい部屋だね」
総次の言葉に紅葉の顔がほころんだ。
「エヘへ、そうですか。お客さんが来ると聞いて、私とお姉ちゃんできれいにお掃除したんですよ」
「へえ、そうなんだ。俺のためにわざわざありがとう」
「どういたしまして。それじゃあ、夕御飯の準備が出来ましたら呼びに行きますので、ゆっくりしていてください」
紅葉は軽やかな足取りで部屋から出て行った。
総次は肩に担いでいた荷物を床に置くと、ベッドに寝転がった。
――予想外の展開だな。
父親にあんな美人の知り合いがいたこともそうだが、可愛い女の子とひとつ屋根の下に暮らすなんてまったく考えてもみなかった。普通なら嬉しい誤算といえるかもしれないが、総次の場合は少し事情が違う。父子家庭で育ち、女性との関わりがほとんどなかったので、彼女たちとうまくやっていけるのかという不安のほうが大きいのだ。
「ふう、これから大変だな」
総次は深いため息をついた。
コンコン。
ちょうどそのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「総次さん、紅葉ですけど、中に入ってもいいですか?」
「うん、どうぞ」
総次はベッドから起き上がって答えた。
「失礼します」
ゆっくりドアが開いて、紅葉が中に入って来た。
「総次さん、夕御飯の準備ができました」
「ありがとう」
総次は紅葉と一緒に階段を降り、台所へ向かった。中には料理を並び終えた若葉と青葉が、先に席について待っていた。
「うわあ、こいつはすごいや」
総次はテーブルに並んだ様々な料理を見て、思わず感嘆の声を上げた。
ビーフシチューにポテトグラタン、スクランブルエッグにメロンなど・・・
コンビニ弁当が主流の総次には、全く縁がなかった食べ物ばかりだった。
「これは全部青葉が作ったのよ」
「へえ、そうなんですか」
若葉の言葉を聞いた総次は、感心しながら青葉を見た。
青葉は相変わらず緊張した面持ちをしており、総次と目が合うと怯えたようにうつむいてしまった。
――俺ってそんなに怖い顔をしているのかな?
青葉の態度に総次は、自分の顔を鏡で見てみたいという衝動にかられた。
「さあ、せっかくの料理が冷めないうちに早く食べましょう」
「はーい」
紅葉が明るい返事をして席に着いた。続いて総次もその隣に座る。
「いただきます」
総次は初めにビーフシチューを口にした。今までに感じたことのなかった味と暖かさが口中に広がった。
「どう、味のほうは?」
若葉がスクランブルエッグを皿に取りながら尋ねた。
「ものすごくおいしいです。こんなうまい料理を食べたのは初めてです」
素直な感想を述べる。
「フフ、よかったわね、青葉」
「・・・」
青葉は何も言わずに、総次から視線をそらしたまま食事を続けた。若葉はそんな娘を見て、困ったような表情を浮かべた。
「ごめんなさいね、総次君。この娘ったら、どうもあなたのことを意識しすぎているみたいなの」
「気にしないでください。俺は全然気にしていませんから」
とは言ったものの、やはり気になってしまう総次であった。
――ひょっとして、俺のことを嫌っているかもしれない・・・
嫌いだから顔も見たくない。口も聞きたくない。そう考えると、何だかつじつまが合っているような気がして、総次は思わず頭を抱えたくなった。この憂鬱を晴らすには、青葉に直接、自分のことを嫌っているのかどうかを確かめれば、一番てっとりは早いのだが、彼女がそれに答えてくれるとは思えないし、万が一『大嫌いです』なんて言われてしまえば、ここに居づらくなってしまう。そういう事態を避けるという意味を込めて、総次は今の悩みを胸の内にしまい込んだ。何しろ、バカ親父のせいで戻る場所を失った総次には、この家で生活するという選択しか残されていないのだから。
「どうしたの、総次君?」
食事をする手を止めて、ぼんやりとしていた総次に気付いた若葉が、心配そうに声をかけた。
「あ、いえ、なんでもありません」
急に現実に戻された総次は、少しうろたえながら、ふたたび食事に専念し始めた。スクランブルエッグをよそったところで、総次はふと気付いたことを口にした。
「若葉さん、あの、ご主人はいつ戻られるのですか?」
総次の質問に、今まで穏やかな笑みを浮かべていた若葉の表情が一変した。若葉だけではない。紅葉や青葉までが悲しそうな表情を浮かべた。
「私の主人は8年前に病気で亡くなったの。だから、今は私たち3人で暮らしているのよ」
総次は不用意な言動に、激しく後悔の念を抱いた。
「すみません。俺、無神経なことを言ってしまって」
「いいのよ、総次君。あなたが悪い訳じゃないんだから」
若葉の気配りに、総次はなおさら申し訳なく思った。責任を感じ、この場をなんとか和ませようと思案してみたが、くだらないダジャレしか思い浮かばなかったので、結局どうすることも出来なかった。こんな状況でダジャレなんて言えば、逆効果になるのは火を見るより明らかだ。
「総次君、明日の学校のことだけど、青葉が案内するからよろしくね」
沈黙を破るように、若葉が会話を始めた。
「俺が今度通う高校ってどこなんですか?」
このときになって、総次は新しい高校について、何も知らないことに気付いた。
「『久遠高校』といって、青葉と同じ高校よ。青葉は1年生で、総次君のひとつ後輩になるから、仲良くしてあげてね」
そう言って微笑む。
「はい、分かりました」
総次は心の中でため息をついた。そうしたいのはやまやまなのだが、青葉の態度からして、それが非常に困難だと痛感せずにはいられなかった。つまらないことでもいいから、とにかく話すきっかけを作らなければと総次は思った。
「総次さんはメロンって好きですか?」
今度は食事を終えた紅葉がまじまじと総次を見つめながら話しかけてきた。
「あんまり食べたことはないけど、嫌いじゃないよ。紅葉ちゃんは好きなの?」
「はい、果物の中ではメロンが一番好きです」
紅葉はふたつ目のメロンを取りながら答えた。
「今の季節なら桃なんかもおいしいよね」
「そうですね。桃もいいですね」
紅葉が楽しそうにうなずく。
「若葉さん。若葉さんは親父とはどういう知り合いなんですか?」
総次は食べ終わったメロンの皮を皿に置いて尋ねた。
「総大さんは学生時代の先輩なの。そのころから、私と主人は総大さんにいろいろと面倒を見てもらっていたのよ」
若葉はそう答えると、ハーブティーの入ったポットを持ってカップに注いだ。
「そうだったんですか」
総次はあの自己中心的な父親が、他人の面倒を見ていたことに驚きの色を隠せなかった。
「だから、もしこの家のことで何かあったら、遠慮しないで私や娘たちに言ってね」
「はい、そのときはよろしくお願いします」
若葉の暖かい言葉とまなざしに感謝の気持ちを込めて、総次は頭を下げた。