Steife Brise
空に捨てた思いの行方

温和な風が吹きぬける校門の前に、ひとりの少女が立っていた。 校門から校舎に続く歩道の両脇には無数の桜の木が植えられており、それぞれの出番を今か今かと待ちわびている。恐らく、あと太陽と月が交互に7回ほど頭上に昇れば、そのときが訪れるだろう。 少女はここで人を待っていた。もっとも、その相手がいつやって来るかは分からなかった。なぜなら、何の約束も取り付けていないからである。 少女は緊張した面持ちで、校舎のほうに体を向けた。下校時間ということもあり、かなりの生徒が校舎を出て門を通り抜けていたが、彼女の待ち人はその中にいなかった。時が経つにつれて緊張の度合いが増し、落ち着きを失っていく。さらに言葉にできないほどのもどかしさと焦りまで生まれ、少女の心を激しく乱し始めた。 少女は自らを落ち着かせるため、大きな深呼吸をした。そして、ふたたび校舎のほうに顔を向ける。その瞬間、彼女の視線が一点に釘付けとなった。 その瞳の先には、ひとりの少年の姿があった。柔和な顔立ちをした少年で、優しそうな雰囲気を漂わせていた。少年は他の生徒に混ざって校門へ向かっていた。 少女ははっと息を飲んだ。少年との距離が近くなるにつれ、全身が火照り出し、胸の鼓動が加速する。 ────今度こそ・・・ 少女が少年の姿を目で追いながら心の中でつぶやく。 それから20秒ほどが過ぎ、少年が少女の前までやって来た。少女の緊張と胸の高鳴りは最高潮に達していた。緊張のあまり心と体が震えだす。少女はじっと少年を見つめた。少年はその視線に気づくことなく、彼女の前を通り過ぎた。少女は身動きひとつせず、首だけを動かし、少年のことを目で追った。少年の姿は次第に小さくなり、やがて完全に消えてしまった。 次の瞬間、少女───水下可菜は深いため息をついて、がっくりと肩を落とした。

可菜は学校のすぐそばにある小高い丘にやって来た。 ここは美術の課外授業でよく使われており、街並みを一望できる風光明媚な場所であった。 可菜は夕映えに包まれた丘から街を見下ろしながら、さっきの出来事を振り返っていた。 「私ってば、どうしていつもこうなのかしら・・・」 沈んだ声でぽつりとつぶやく。 可菜は先ほどの少年───同級生の桐野正義に思いを寄せていた。彼との出会いは今からちょうど1年前、可菜が高校2年生のときで、好きになった理由はよく分からなかった。俗にいうひと目惚れというやつである。ところが、その気持ちを未だに伝えられないため、初めて会ったときからずっと片思いのままで止まっていた。両思いになるためのチャンスは幾度もあった。しかし、可菜はそれをことごとく逃がしており、今回もいつもと同じように、何もせずにただ好きな相手の後ろ姿を見送るだけで終わってしまった。肝心なときに体はおろか口まで動かなくなってしまう。そんな自分に対し、可菜はどうしようもないくらいの口惜しさと歯がゆさを感じずにはいられなかった。 可菜は制服のポケットから一枚の封筒を取り出した。1年間も役目を果たせないでいる哀れな封筒だ。「これを受け取ってください」とひと言声をかけて、封筒を渡すだけで済むことなのだが、どうしてもそれができなかった。ほんの少しの勇気を出せばできるはずなのに。可菜は理想と現実の違いに苦悩していた。 「もう桐野君のことは忘れたほうがいいよね・・・だって、このままだと私がつらいだけだし・・・」 可菜は両手で持っている封筒を見つめながら、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。 叶わない思いなら、いっそのことあきらめたほうがいいのではないか? ネガティブな考えが心の中に渦巻き始める。恐らく、今の調子だと永久的な片思いを余儀なくされるのはほぼ間違いない。そうならないためには、持っている封筒を渡して胸のうちを告げるしかないのだが、それは自分の性格が変わらないかぎり無理だと断言できる。何しろ、1年間も同じことを繰り返してきたのだから、そんな生まれつきの性格を一朝一夕で変えることなど事実上不可能なはなしである。 可菜は封筒を開けて中身を取り出すと、器用な手つきで折り紙をし、紙飛行機を作った。 「私は今日であなたのことをあきらめます・・・」 可菜は悲しげにそうつぶやくと、紙飛行機を空に向かって飛ばした。紙飛行機は、丘の上を流れるたおやかな風に乗って、ゆっくりと滑空し始めた。 とそのとき、一陣の風が吹き抜け、彼女の思いが込められた紙飛行機を遠くへ運んだ。それはまるで可菜の正義に対する未練を断ち切るかのようであった。 「さようなら、私の初恋・・・」 可菜はうっすらと目に涙を浮かべながら、黄昏色の空に舞う紙飛行機をいつまでも見ていた。

翌日、1時限目の授業が終わって休み時間になったとき、可菜のもとにクラスメートの女の子がやって来た。 「ねえ、水下さん。隣のクラスの桐野君があなたに会いに来ているわよ」 「え?」 可菜は思わず我が耳を疑った。 「ど、どうして桐野君が私のところに・・・?」 思ったことがそのまま言葉となる。 「さあ。それは本人に会って直接聞けば分かると思うけど」 「う、うん、そうよね」 可菜は席を立つと、足早に教室の外へ向かった。そして、出入り口付近に立っている少年を見て、可菜はその場で硬直してしまった。 昨日、校門の前にいた自分を再現するかのように、体中が熱くなり、心臓が早鐘を打ち始める。可菜をそんなふうにさせる相手はひとりしかいない。桐野正義───今、彼女の目の前にいる少年である。 「君が水下さん?」 「・・・え、あ、は、はい・・・」 少し間をあけてから可菜はぎこちない返事をした。緊張のため、口から言葉を出すことさえひと苦労だった。 「実は君に聞きたいことがあるんだけど、ここじゃあ、少し聞きにくいから中庭まで一緒にいいかな?」 「え、ええ、構いませんけど・・・」 「ありがとう。手間をとらせてごめんね」 正義は微笑みを浮かべて感謝の言葉を述べた。 「それじゃあ、行こうか」 「あ、はい」 可菜は緊張としたまま、正義と教室を離れ、中庭へ向かった。 中庭を流れる和風が花壇に咲いているアイリスの花と可菜の髪を揺らす。 正義はアイリスの花壇の前で立ち止まると、ポケットから何かを取り出した。 「あの、これって水下さんが書いたものだよね?」 それを見た可菜は絶句した。 「そ、それは・・・!」 正義が手にしたものを見た瞬間、可菜は絶句した。激しい動揺が全身を駆けめぐる。 片思いの相手が差し出したものは、不規則な折り目の付いた手紙だった。可菜はその手紙に見覚えがあった。それは間違いなく、昨日、丘の上から紙飛行機にして飛ばした片思いの象徴だった。 「ど、どうしてこれを・・・」 可菜は声をうわずらせながら尋ねた。緊張はすっかり影をひそめたが、代わりに動揺と疑問が首をもたげる。 「昨日、この手紙で作られた紙飛行機が僕の頭にぶつかってきたんだ。もしかしたら、単なるいたずらかもしれないと思っていたんだけど、どうやら水下さんが僕あてに直接飛ばしたものみたいだね」 「そ、それはその・・・」 答えに窮する可菜。この状況で事の真相を言えるはずがない。ところが、その場をうまく取り繕えるような言葉を返せるほどの余裕はなかった。 「そ、その手紙は・・・ご、ごめんなさい」 結局、可菜は意味もなく謝ることしかできなかった。 「水下さんが謝ることなんてないよ、むしろ、謝らなくてはならないのは僕のほうだよ。今まで気づかなくてごめんね」 正義はそう言って、可菜の顔を上げさせると、真剣な表情で彼女を見つめた。 「水下さん」 「は、はい」 可菜は小さく体を震わせて返事をした。 「水下さんの気持ち、確かに受け取りました。僕のほうこそ、あなたとお付き合いさせてください」 正義の言葉を耳にした可菜は、驚きと困惑のあまり、茫然自失となった。 「・・・ほ、本当に・・・本当に私なんかでいいんですか・・・?」 「うん、もちろんだよ」 正義はそう答えて微笑んだ。 これは夢などではない。はっきりとそう認識できたとたん、可菜の瞳から涙が溢れ出た。 「み、水下さん」 突然、可菜が泣き出したので、正義は慌てふためいた。 「ご、ごめんなさい。あまりにも嬉しかったから・・・」 可菜は涙を細い指で拭い去ると、とびっきりの微笑を正義に見せた。 そのとき、ふたりのいる中庭に流れていた微風が突風に変わり、刹那の速さで駆け抜けた。可菜はその風が昨日、丘の上に吹いた風と同じように感じた。根拠などないが、そう思わずにはいられなかった。 ───ありがとう! 可菜は風が去った方角に顔を向けると、心の中で感謝の気持ちを告げた。