Erwartung Valentinstag

折りたたみ式テーブルの上に広げられた問題集が大きな壁となり、立ちはだかっている。
これを乗り越えなければ、明日はない。
伊波健は苦悩の表情を浮かべながら、問題集と対峙していた。
今回の問題はいつものよりも格段に難しく、健は何度も書いた答えを消してはまた書くという作業を余儀なくされた。
明確な答えを出せない問題にぶつかったところで、健は視線を別の場所に移した。
そのとき、ちょうどカレンダーが目に入り、今日が特別な日であることに気付かされた。
「なあ、鷹乃。今日は何の日か知ってるか?」
健はそばにいる恋人兼家庭教師の少女───寿々奈鷹乃に向かって話し掛けた。
「何の日って今日は2月14日でしょ」
鷹乃は何事もないように、さらりと答えた。
それを聞いた健の口からため息が漏れる。
ある程度予想していた答えだったが、やはり直接聞かされると気落ちしてしまう。
「それはそうなんだけど・・・」
頭をかきながら、困ったような顔をする。
「ほら、今は無駄話している暇はないはずよ。あと時間まで10分しかないわよ」
「あ、いっけね」
鷹乃の冷静な言葉にうながされ、健はふたたび問題集に向かった。
なぜ、バレンタインの日に勉強なんかやっているんだろうかと不満に思うが、これは受験生に課せられた宿命といえる。
特に健の場合、浪人しているのでもうあとがないといっても過言ではない。
悲しいが試験が終わり、合格するまではひたすら勉強するしかないのだ。
───こうなったら意地でもここでいい点を取る!
健は急激に沸き上がった闘志にかき立てられ、次々と問題を解き始めた。
「はい、それまで」
テストの終わりを告げる鷹乃の声とほぼ同時に健はシャープペンシルを置いた。
「お疲れ様。それじゃあ、採点するから少し待っていて」
鷹乃が問題集を取って、すばやく採点を始める。
「89点か・・・これなら及第点をあげられるわね」
「それでも及第点止まりですか」
「100点じゃない限り、合格点とは言えないわ」
鷹乃はそう言って、問題集を返した。
「相変わらず鷹乃先生は厳しいな」
健が苦笑いを浮かべながら問題集を受け取る。
「・・・伊波君、これもあげるわ」
しばらく間をおいて、鷹乃が小さな包みを健に渡した。
「鷹乃、ひょっとしてこれって・・・」
「チョコレートよ。テストの点がよかったから、そのご褒美として伊波君にあげるわ。でも、味の保証はしないわよ」
「これって鷹乃の手作りチョコか。ありがとう」
「お、お礼を言われるほどのものじゃないわ。初めて作ったチョコレートだから・・・」
鷹乃は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「早速、食べてもいいか?」
「え、ええ、いいわよ」
鷹乃が戸惑いながらも承諾の答えを出す。
健はそれを聞いて、包みを開けた。中にはイルカやクジラの形をした小さなチョコレートがいくつも入っていた。海に関わる生物のデザインを選んでいるのが鷹乃らしいと健は思った。健はそのうちのひとつをつまんで口に入れた。
少し苦味のあるチョコの味が口中に広がる。
「ど、どう?」
心配そうに健の顔を覗き込む。
「うん、すごくおいしいよ」
「よかったあ」
健の言葉に、鷹乃のクールな顔から安堵の色が浮かんだ。
「さ、それを食べ終わったら次の問題をやりましょう」
「え、まだやるの?」
健が疲れ果てた表情で鷹乃を見る。
「当たり前でしょ。ここが正念場なんだから。それに・・・来年のバレンタインは伊波君と一緒に・・・」
そこまで言って、鷹乃はまた顔を真っ赤にさせた。
「鷹乃、最後のほうの言葉がよく聞こえなかったんだけど、なんて言ったんだ?」
「な、なんでもないわよ。それより早く問題を解きなさいよ、ほら」
「はいはい、分かりましたよ、鷹乃先生」
健は新たな問題集を開いて解き始めた。
───もう少しだから頑張ってね、伊波君。
鷹乃はかすかな微笑みを浮かべながら、心の中でエールを送った。