白河ほたるの章
青い海に、青い空。
この風景はどこまでも果てしなく広がっていた。
伊吹みなもは、穏やかな表情を浮かべながら、海をじっと眺めていた。
みなもは新しい町の風景を描いてみたいと思い、この電車に乗った。
目指す場所の名は「桜峰」。
みなもが住んでいる藍ヶ丘町の隣町である。
今まで、みなもは病気で長いこと入院していたため、これが初めての遠出になる。
隣町なので、距離的にそれほど遠くはないのだが、それでもみなもにとっては、小さな冒険といっても過言ではなかった。
やがて海が見えなくなると、すぐ目的地に着いてしまった。
みなもは愛用のスケッチブックを両手で抱えると、ゆっくりと電車から降りた。
潮の香りを含んだ風がみなもの髪を大きく揺らす。
海からやって来る風の歓迎を受けながら、みなもは改札をくぐって、町に出た。
「これが桜峰・・・」
みなもは、目の前に広がる風景に心を奪われた。
古風な造りの家が建ち並ぶ町並みには、歴史を感じさせる趣があった。
みなもは、近代化を急速にたどっている現代に、こんな町があったことに驚き、そして感動した。
「どこからスケッチしたらいいのかしら・・・」
始めは海だけを描くつもりだったが、この町を見て、他の景色も描きたくなったみなもは、スケッチする場所を探した。
ちょうどそのとき、少し前の地面に携帯電話が落ちていることに気付いた。
みなもは近づいてそれを拾うと、辺りを見回した。
───あ、あのひとかもしれない。
街路樹のそばで、必死に何かを捜している少女の姿を見て、みなもは確信を抱いた。
「あの、ひょっとして、探し物はこれじゃないですか?」
少女に携帯電話を差し出すと、少女は大きく目を見開いた。
「そ、それは私の携帯電話!それをどこで手に入れたの?」
血相を変えてみなもに詰め寄る。
「駅の改札に前に落ちていましたけど・・・」
少女の剣幕に押されながら、みなもは答えた。
「そうだったんだ。ありがとう、拾ってくれて」
少女はようやく落ち着きを取り戻した。
「本当にありがとう。私、これを落としちゃって、本当にどうしようかと思っちゃった」
受け取った携帯電話を大事そうに両手で握った。
「よかったですね。今度から無くさないようにしてくださいね」
「うん。あ、そういえば、私ったら、きちんと挨拶していなかったわ。私は白河ほたるっていうの。あなたは?」
「私は伊吹みなもっていいます」
みなもはぺこりと頭を下げた。
「伊吹さんか・・・伊吹さんは浜崎学園の生徒じゃないよね」
「ええ、私は澄空高校に通っています」
「へえー、伊吹さんは澄空高校の生徒なんだ。それじゃ、飛世巴ちゃんって知ってる?私と同じ3年生なんだけど」
「ごめんなさい、私、3年生のひととはあまり面識がないので、分かりません」
申し訳なさそうにみなもが言う。
「そうなんだ。あ、別に気にしていないから、そんな顔しないで。もし、巴ちゃんに会うことがあったら、ほたるが今度、機会があったら一緒に遊ぼうって言ってたって伝えてほしいんだけど、いいかな?」
「分かりました。会うことがあったら必ず伝えますね」
「ありがとう」
そのとき、突然、携帯電話から着信メロディが流れ出した。
「あ、健ちゃんからメールだ」
「健ちゃん?」
「ええ、健ちゃんは私の1番大切なひとなんだよ」
みなもの言葉に反応して、ほたるが嬉しそうに言う。
「えっと、何かな・・・ああっ!!」
「ど、どうしたんですか?」
突然の大声にみなもが驚く。
「今日、健ちゃんと待ち合わせしていたの。あーん、もう10分も遅刻してるー!」
ほたるが今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
「それじゃ、急いだほうがいいですね」
「うん、それじゃ、私はこれで失礼するね。携帯電話、拾ってくれて本当にありがとう!」
ほたるは、みなもに一礼をすると、慌てて走り出した。
ほたるの背中を見送るみなもは、昔、一緒にいた従妹のことをふと思い出した。
───そういえば、彩ちゃんも智也さんのことを話すときは、今のほたるさんのような感じだったよね。
『健ちゃん』ことを話していたほたるは、すごく幸せそうな顔をしていた。
好きなひとがいて、そのひとの1番そばにいられる喜び。
それはかけがえのない幸せだと思う。
みなもは、好きなひとと一緒にいられるほたるが、ちょっぴりうらやましかった。
自分は好きなひとと結ばれることが叶わなかったから・・・
───私もいつかは、ほたるさんみたいに笑えるようになりたいな・・・
みなもは、ほたるが消えた歩道を見つめながら、心の底からそう願った。