奇跡の雪

燦然と降り注ぐ太陽の光が、白銀に覆われていた大地に、短い夏を与えた。
大地は白銀から緑に変わり、熱気を帯びた風が刹那の速さで吹き抜けていた。
「祐一さん、これが海なんですね・・・」
栞は果てしなく広がる大海原を目にして、ものすごく感動していた。
幼い頃から重い死の病を抱えていた栞は、今まで海というものを見たことがなかった。
本来なら、ここに来ることがまずありえなかった。
医師から冬が終わる頃には、自分が死んでしまうと告げられていたからである。
しかし、そんな自分に奇跡という不可思議が起こり、栞は死という絶望の鎖から解き放たれた。
───起きないから奇跡っていうんですよ。
これが栞の口癖のひとつだった。
奇跡は起きない。だから、奇跡なんてありえない。栞はすべてを知りすべてを受け入れようとした。周りのひとを心配させないよう、必死に健気な笑顔を作りながら・・・
しかし、心の奥底では“起きる奇跡”を願っていた。
そして、栞は“起きる奇跡”を授かり、現在という時間の先───未来を手にした。
「ああ。どうだ海の感想は?」
「すごく広くて大きいです。ここまで連れてきてくれて、ありがとうございます」
「これぐらいどうってことないさ」
嬉しそうに笑う栞に、祐一は照れくさそうに頭をかいた。
「栞、何かしたいことがあるなら言ってくれ」
「はい、私、実はやってみたいことがあったんです。祐一さん、手伝ってくれませんか?」
「ああ、いったい何をするんだ?」
「砂のお城を作るんです」
「砂の城を?なんか恥ずかしいな・・・」
「駄目ですか・・・」
悲しそうな表情を浮かべる。
「分かった。一緒に作ろう」
そんな顔をされては、嫌とは言えず、祐一はしぶしぶ同意した。
「ありがとうございます」
栞はとびっきりの笑顔を浮かべた。
それから、ふたりは共同で砂の城を作り始めた。
初めは難色を示していた祐一であったが、いつの間にか熱中してしまい、率先して砂を集め、城作りに大きな貢献をした。
「栞は砂遊びをしていると、ほんと子供みたいに見えるな」
「うー、そんなこと言うひと嫌いです」
いつもの口癖と同時に、頬を膨らませる。
「そういう祐一さんだって、私よりも夢中になって作っているじゃないですか」
「お、俺は何事にも熱中するタイプなんだ」
図星を突かれて、恥ずかしさが込み上げる。そんな祐一の仕草に、栞はクスリと笑った。
祐一は、ばつが悪そうな顔をしながら、ふたたび城作りを始めた。
そして、ようやく城が完成し、ふたりは海の水で手を洗った。
「やっと出来ましたね」
「うん、我ながらいい出来だ」
ふたりは互いに顔を見合わせ、満足そうにうなずいた。
そのとき、打ち寄せた波が砂の城に当たり、城が崩れ始めた。
「あ、私たちのお城が!」
「これはまずい。なんとかしないと」
祐一は慌てて、城の周りに穴を掘って外堀を作り、波の進入を防ごうと試みたが、間に合わず、砂の城は完全に崩れ去った。
「崩れちゃいましたね・・・」
栞が残念そうにつぶやく。
「また作り直せばいいさ。今度は波が届かない場所で作ろう」
「そうですね。私、頑張ります」
「よし、やるか」
祐一は小さな握りこぶしを作って、気合いを入れた。
「こんにちは」
突然、背後から誰かが声を掛けてきた。
祐一と栞が振り返ると、そこには小さな羽が生えたリュックを背負った女の子が立っていた。
───どこかで会っているような気がする・・・
ふと祐一の脳裏にそんなことがよぎった。
「おまえ、俺たちとどこかで会ったことないか?」
祐一は少女に問いただした。
「ううん、会っていないはずだよ、多分・・・」
少女は表情を少し曇らせながら答えた。
「そうだよな・・・」
祐一は釈然としない気持ちを抱いた。
「元気そうだね」
「あ、ああ、俺は元気だぞ」
違和感のある言葉に、祐一は首をひねった。
「よかった・・・」
少女がかすかなつぶやきを漏らした。
「ん、今、なんて言ったんだ?」
「ううん、何でもない。独り言だよ」
小さく首を振る。
「あ、ボク、もう行かなくっちゃ」
少女はそう言うと、きびすを返して歩き出した。
「お、おい、ちょっと待てよ!」
祐一は慌てて呼び止めるため、走り出そうとした。
「追って来ちゃダメだよっ!」
少女が歩いたままで、祐一を制止した。
「ここにいないとダメだよ・・・大切なひとがいる場所にいないとダメだよ・・・」
と言って振り返り、笑顔を浮かべた。
「ふたりとも、幸せになってね」
ふたたび歩き出す。
「・・・」
祐一は、ただじっと少女の後ろ姿を見送った。
理由は分からないが、そうしないといけないと感じたからだ。
次第に少女の姿が小さくなり、やがて完全に見えなくなった。
「祐一さん・・・」
不意に栞が口を開いた。
「私、あのひととどこかで会った気がします・・・」
栞は人差し指を口に当て、考え込んだ。
「実は俺もそんな気がするんだ・・・」
祐一も同意を示す。
ちょうどそのとき、空から何かが降ってきた。
「これは・・・雪!?」
祐一は我が目を疑った。
ところが、雲ひとつない夏の青空から降ってきたのは、間違いなく雪だった。
まさに信じられない光景だった。
「綺麗ですね」
栞は意外と冷静だった。季節はずれの雪は陽光を受け、幻想的な美しさを放っていた。
「これも奇跡ですね」
「ああ、まったくだ」
ふたりは、並んで空を見上げた。
「栞、おまえは今、幸せか?」
「はい。怖いぐらい幸せです。祐一さんはどうなんですか?」
「俺も幸せだよ」
「よかったです。私だけ幸せだったら、どうしようかと思いました」
安堵の笑顔を浮かべる。
「そんなわけないだろ。大好きなひととこうしていられるんだから」
「私も同じです」
かけがえのない少女の笑顔に、祐一はどうしようもないくらいの愛しさを感じた。
奇跡が与えてくれたこの瞬間を大事にしたい。
絶えず流れる季節のなかで、この気持ちをずっと抱き続けていたい。
大切なひとと同じ場所にいて、同じ時間を過ごすことが祐一の1番の望みだった。
「栞、幸せになろう」
「はい、祐一さん」
祐一と栞は、奇跡の雪の中で永遠の愛を誓いながら、口づけを交わした。