ファーストプレリュード

形のない招待状は、夕食後に届けられた。
「総次さん、ちょっといいですか?」
「ん、どうしたんだい?そんなに改まって」
総次は控えめな態度で自室を訪れた同居人に尋ねた。
「あの、総次さんは今度の日曜日、何か予定とか入っていますか?」
「特に何もないけど、何か手伝ってもらいたいことがあるのかな」
「いえ、もし予定が空いているのなら、一緒にイデアールパークに行きませんか?」
「そういえば、また紅葉ちゃんを連れて一緒に行こうって約束していたね。いいよ、行こうか」
「あ、いえ、違うんです。あの、今度だけなんですけど・・・」
青葉はひどく慌てながら言った。
「え、青葉ちゃんだけってことは、もしかしてふたりっきりでっていうこと?」
総次は思わず青葉の顔をまじまじと見てしまった。
「は、はい・・・やっぱりそれだと駄目ですか?」
胸の上に右手を置いたまま、上目遣いで尋ねる。
「いや、そんなことないよ。むしろ大歓迎だよ」
総次は大きく首を横に振った。
「よかった・・・ありがとうございます。今度の日曜日、楽しみにしていますね」
青葉は安堵と嬉々が入り混じった表情を見せると、一礼をして立ち去った。閉まったドア越しに伝わる足跡は、軽やかなリズム音を奏でていた。
───これってやはりデートになるよな?
総次は先ほどまで青葉がいた場所に目をやりながら思った。
その瞬間、歓喜の泉が湧き上がり総次の心を満たしていった。しかも、向こうからのお誘いなので、嬉しさは倍増だった。
今週の日曜日は今までにはない楽しい日曜日になるだろう。その日を思いめぐらし、総次は胸を躍らせた。


2度目のイデアールパークの風景に変化はなかった。しかし、目に見えない何かが違っていた。まわりの空気というべきだろうか。今までに感じたことのない雰囲気が総次の心を弾ませた。
総次は隣を歩いている青葉を一瞥した。真っ先に思ったのが可愛いということだった。特に着飾っているわけでもなく、おしゃれをしているわけでもない。けれども、通りがかった男たちが立ち止まってしまうほどの魅力が彼女にはあった。その魅力を言葉で表すのなら、天然素材の美少女という言葉がぴったり合うのではないかと総次は思った。
「総次さん、まずはどこに行きますか?」
青葉がこちらに顔を向けて尋ねた。その仕草もまた愛らしさがにじみ出ていた。
「青葉ちゃんの行きたいところならどこでもいいよ」
「そうですか。それなら、ジェットコースターがいいです。あ、でも、総次さんはジェットコースターが駄目だったんですよね」
「あ、いや、あれは久しぶりに乗ったから、ああなっただけだよ」
総次は、ばつが悪そうな顔をして答えた。本当は苦手なのだが、前回の件もあるので、ここで引き下がるわけにはいかない。くだらない強がりに見えるかもしれないが、男というのはそういう生き物なのだ。
「本当にいいのですか?」
「ああ、まったく問題ないよ。むしろ、俺もジェットコースターに乗りたい気分だよ」
総次の頑なな姿勢によって、最初の目的地が決まった。
イデアールパークのジェットコースター「インフィニティメガロゾーンコースター」は人気が高く、休日のという条件も加わり、一時間近くも待たなくてはならなかった。
「前来たときよりも並んでいますね」
青葉は周囲を見回して言った。
「本当だ。倍以上になってるな。それだけ面白いってことなんだろうな」
総次は素直な感想を述べた、もっとも、どこがそれだけ面白いのか理解できなかったが。
「あ、人が動き出したよ。次、乗れそうですね」
ふたりは人の流れに沿って歩くと、インフィニティメガロゾーンコースターに乗り込んだ。青葉にとっては待望、総次にとっては雪辱のジェットコースターである。
───今度は無様な姿は絶対にさらさない!
総次は両頬を叩いた。前回、傷つけられた男のプライドの輝きを取り戻すのは、今をおいて他にない。合言葉はリベンジ。そのひとつの単語に集約されていた。
インフィニティメガロゾーンコースターが青空に近づくにつれ、総次の胸の動悸が激しさを増していった。それが緊張によるものか興奮によるものかは定かではない。やがてインフィニティメガロゾーンコースターの動きが止まり、胸の音量が最大に達した。
いよいよだなと思った刹那、景色が急降下していった。総次の口から声にならない悲鳴が上がった。圧倒的な加速力と遠心力が世界を大きく揺らす。先ほどまでみなぎっていた気概は木っ端微塵に砕け、総次の思考とともに雲の彼方へ飛んでいった。
インフィニティメガロゾーンコースターは次第に速度を緩めながら、元の場所に到着した。わずか数分の出来事であったが、総次は何がどうなったかまったく覚えていなかった。
「総次さん、大丈夫ですか?」
青葉が心配そうに総次の顔を覗き込むように見た。その表情がすべてを物語っていた。リベンジならず。それどころか恥の上塗りをやってしまい、総次は己の不甲斐なさに失望せずにはいられなかった。今回は期するものがあっただけになおさらのことだ。
「あ、ああ、大丈夫だよ」
総次は頭を小さく振って立ち上がろうとした。そのとき、急に足の力が抜けて大きくよろめき、その拍子に青葉の肩に両手を置いて体を預けてしまった。柔らか感触が手のひらに伝わり、きめ細かい髪から漂うシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
「あ・・・」
突然の出来事に、青葉は目をまばたかせながら固まった。
「ご、ごめん!」
総次は勢いよく離れて謝った。
「い、いえ、気にしないでください。それより本当に大丈夫ですか?」
青葉は顔を赤らめながら再度総次に確認の問いかけを投げかけた。
「もう大丈夫だよ。ちょっと目が回って足がもつれただけだから」
「ごめんなさい、私がジェットコースターに乗りたいって言ったばかりに、総次さんに迷惑をかけてしまって」
「いや、青葉ちゃんが謝ることなんてないよ、悪いのはこの程度のことでまいってしまった俺のほうだよ。こっちこそ急に抱きつくような真似をしてごめん」
申しわけなさそうにしている青葉に対して、総次は大きく首を横に振った。なんとなく気まずい空気が流れ出す。
「総次さん、次はお化け屋敷に行きましょう」
「え?でも、お化け屋敷は青葉ちゃん苦手なんだろ。別に無理しなくてもいいよ」
総次は青葉の言葉に耳を疑った。
「いえ、総次さんがわざわざ苦手なジェットコースターに乗ってくれましたから、今度は私が苦手なものに挑戦します。それに私、今お化け屋敷に行きたい気分なんです」
青葉はそう言って微笑んだ。たおやかな笑顔は一気に空気の色を変えた。総次は彼女の優しさと心配りに、改めて異性としての好意を抱いた。
「それじゃあ、行きましょう」
「ああ」
ふたりは並んで歩き出した。
お化け屋敷のほうはインフィニティメガロゾーンコースターとは正反対で、すぐに入ることができた。
内装は暗くて断定できない部分もあるが、前来たときと同じように思えた。
「総次さん、あの、絶対に私から離れないでくださいね」
青葉は不安そうに総次の腕をつかんで寄り添った。華奢な体がひとりぼっちになった小鹿みたいに震えている。女の子らしい仕草が微笑ましく、また愛しく思えた。
「大丈夫だよ。もし怖いのなら目をつぶっていればいいよ。俺が出口までしっかり送るからさ」
「いえ、そういうわけにはいきません。私も頑張ります」
珍しく強がる青葉を見て、総次は微笑した。
しばらく歩くと、どことなく見覚えのある場所に着いた。
───確かここで生首が落ちてくるんだよな。
と思いつつ一歩前に踏み出したとたん、予想どおり首が天井から降ってきた。
「きゃあああ!」
同時に青葉が悲鳴を上げて抱きついた。腕に伝わる柔らかい感触に総次の全身が火照りだす。2度目の来館で場所そのものに慣れているため、そのぶん青葉の体の感触を否応なしに意識してしまった。
───青葉ちゃんって、華奢な体つきの割には胸が大きいんだな。
そんな不埒な思いが脳裏に浮かぶ。
「だ、大丈夫だよ、青葉ちゃん。ただの作り物だからさ」
総次は、怯える青葉とよからぬ妄想を抱きつつある自分自身を落ち着かせるよう静かな口調で語りかけた。
「え、ええ、分かってはいるのですが、やっぱり怖いです・・・」
青葉は声と体を震わせながら、さらに総次にぴったりくっついた。その目には心なしか涙がにじんでいるように見えた。
「もし、本当に怖いのなら無理せず目を閉じてくれよ」
「は、はい、そのときはすみませんがお願いします」
小さくうなずく。
総次はこれからが大変だと思いながら歩いた。一番の心配は青葉のことより自分の理性のことだった。
お化け屋敷の仕掛けは容赦なく青葉に悲鳴を上げさせ、総次の理性の岩壁を激しく揺らした。青葉だけではなく己自身のためにも先を急ぎたいところなのだが、彼女の歩みが鈍いため、そうすることが叶わなかった。恐らく、恐怖のために足が思ったように動かないのであろう。そんな状態である彼女を急かすわけにもいかないので、やむなく歩くペースを落としていた。
「総次さん、もうすぐ出口ですよね?」
青葉は明らかな願望を込めた口ぶりで尋ねた。彼女は何度も怖い目にあっているにも関わらず、未だに目を開けていた。総次は青葉が意外にも気丈な心の持ち主であることを知り、少し驚きながらも感心した。
「ああ。確かそろそろゴールだと思うんだけど・・・」
総次がそう言ったときだった。
突如、轟音とともに無数の手が左側の壁を突き破って現れた。
「うわあっ!」
「きゃあああああ!」
2種類の悲鳴がこだまする。この仕掛けは前にはなかった代物だったので、不意をつかれた格好となり、総次もつい驚いてしまった。
「ふう、びっくりした。いつの間にかあんな仕掛けが作られているとはな」
総次は深いため息をつくと、青葉のほうに顔を向けた。そのとき、胸に顔をうずめて寄りかかっている青葉の様子がおかしいことに気付いた。
「青葉ちゃん?」
青葉からの反応はまったくなかった。
「今のショックで気絶しちゃったんだな」
予想外の出来事に総次は困惑した。とりあえずここにいても仕方ないので、総次は青葉を抱えて歩き出した。目前にある青葉の顔と両手に伝わる体の感触に甘いときめきを覚える。
つややかさと柔らかさを兼ね備えた長い髪。
繊細なまつ毛。
可憐な唇。
間近で見る同居人の少女はとても可愛かった。
───このまま顔を近づければ・・・
ふとそんなことを考えてしまう。頭の中が熱くなり、思考が朦朧とし始める。特別な引力によって、ふたりの顔の距離が縮まっていく。
好きならそのままキスしてしまえばいい。誰も見ていないのだから、そのまま唇を奪ってしまえばいい。今が絶好の好機だ。心の中に住まう悪魔がささやく。
───駄目だ!
総次は大きくかぶりを振って、悪魔の誘惑を打ち消した。間一髪で思いとどまった総次は、顔を正面に向けたまま歩を進めた。首も目も微動だにせず、ひたすら歩いた。
やがて出口に到着すると、ふたたび青葉に声をかけた。
「青葉ちゃん」
彼女は依然動きを見せなかった。
「青葉ちゃん」
「・・・う、ううん・・・」
3度目の呼びかけで、青葉は目を覚ました。
「総次さん、ここは?」
「お化け屋敷の外だよ」
「私、気を失ってしまったんですね。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いや、そんなこと気にしなくてもいいよ。それより、具合のほうはどうだい?」
「ええ、もう大丈夫です」
「そうか」
安堵の笑みを浮かべる。
「総次さん、あの、そろそろ降ろしてくれませんか?」
「あ、ああ、すまない」
総次は慌てて青葉を地面の上に降ろした。
「あ、あの、総次さんはずっと私を抱えてくれたのですよね?」
「ああ、そうだけど」
「そうですか。そのときのことを覚えていないのが残念です」
ぽつりとつぶやく。
「ん、今何か言ったかな?」
「い、いえ、なんでもありません。ただの独り言です」
青葉の態度に、総次は首をかしげた。
「次はどこに行こうか?」
「そうですね、総次さんにおまかせします」
「それならとりあえずいろいろと見て歩きながら決めよう」
「はい」
青葉は歩き出そうとした総次のもとに駆け寄ると、その右腕に自分の左腕を絡めた。
「あ、青葉ちゃん?」
彼女の唐突な行動に、総次は驚きを隠せなかった。
「あの、今日1日こうして歩いてもいいですか?」
不安と緊張が重なり合ったまなざしを向ける。
「青葉ちゃんがそうしたいのなら俺は構わないよ」
総次は笑顔で彼女の願いを聞き入れた。予想外の出来事は総次に小さな戸惑いと大きな喜びをもたらした。願ったり叶ったりとはまさにこのことだ。
「ありがとうございます」
青葉は柔らかい微笑みを浮かべると、そっと総次の体に寄り添った。