ファーストプレリュード

昼の休憩時間を挟んで着々とプログラムが進み、残す競技もひとつとなった。
総次と倭は今までの成績を記したボードの前に立ち、順位を確認していた。
「今年は春日山のほうが1位か。でも、僅差だから最後のリレーで俺たちが1位になれば、
逆転できるな」
倭はボードをしげしげと見ながら言った。
「去年はうちのチームが1位だったのか?」
「ここまではな。でも、最後のリレーで春日山に負けて、準優勝に終わった」
「春日山って強いのか?」
「ああ、強いぜ。何しろ、8年連続で優勝しているからな。俺たちの躑躅咲も準優勝5回
の実績があるが、春日山にだけはどうしても勝てないんだ」
「そいつは強敵だな」
総次の表情が険しくなる。
「でも、今年こそはリレーで春日山を破って優勝してみせるぜ。いつまでも春日山の連中
だけに、おいしい思いをさせるわけにはいかんからな」
倭が息巻く。
「そうだな。俺も青葉ちゃんのためにも負けるわけにはいかない」
「そうか。おまえは愛しの青葉ちゃんに食器乾燥機をプレゼントしないといけないんだよ
な」
意味深な笑みを浮かべる。
「な、何馬鹿なことを言ってるんだ!俺は別に・・・」
総次は狼狽して口ごもった。顔が熱を帯び、朱色に染まる。
「ハハハ、照れるな照れるな。とにかく躑躅咲の悲願とお互いの幸せのために頑張ろうぜ」
「ったく、人の気も知らないで・・・」
不満げな表情を見せる。
「こんにちは、伊倉先輩」
そのとき、誰かが総次に挨拶をしてきた。総次が声のした方向に顔を向けると、青葉のク
ラスメートである神垣光騎が立っていた。
「おまえは確か神垣光騎・・・だよな?」
「はい。今度のリレーで伊倉先輩と対戦することになりましたので、ご挨拶に伺いました」
「もしかして、おまえもアンカーなのか?」
「はい。僕は春日山のアンカーになっていますので、よろしくお願いします」
光騎が一礼をする。
「あ、ああ、こちらこそお手柔らかに頼む」
総次は戸惑いながら返答した。
「それでは僕はこれで失礼します。伊倉先輩、お互いベストを尽くしましょう」
光騎はそう言うと、再度頭を下げてその場を去った。
「今年はあいつがアンカーなのか。確か前回アンカーをやっていた如月もリレーに出てい
るみたいだし、これはやっかいなことになったな」
彼の後姿を見送ったあと、倭は腕組みをしながら難しそうな顔をした。
「大丈夫だ。俺は神垣に負けたりはしない」
総次はきっぱりと言い放った。相手の力量は定かではないが、高校1年生で強豪チームの
アンカーに抜擢されるぐらいなのだから、強敵であることに違いはないだろう。しかし、
たとえそうであったとしても、負けることは許されない。1年先輩としてのプライドもあ
るが、何よりも青葉のためにも、この勝負だけはなんとしても勝ちたかった。
「そいつは心強い言葉だな。頼りにしてるぜ、アンカー」
倭は笑顔を浮かべて、総次の右肩を軽く叩いた。


高空に乾いたピストル音が鳴り響き、ときの声のごとく大歓声が上がる。皐月町運動会が
クライマックスを迎えた瞬間だ。場内はたちまち興奮と声援のるつぼとなり、その盛況ぶ
りは最高潮に達していた。
最終競技となっているリレーは、序盤から躑躅咲と春日山の一騎打ちとなり、熾烈な首位
争いを繰り広げていた。その争いは一進一退で幾度となく順位が揺れ動いていた。
総次は食い入るように戦況をじっと見つめていた。自然と作り出した握りこぶしが汗ばん
でいる。当然のことながらリレーも団体競技なので、総次ひとりの力では勝つことができ
ない。自力でどうすることもできないジレンマが総次をやきもきさせた。
「さすが春日山、簡単には勝たせてくれないわね」
総次の前にいた千歳が顔をこちらに向けた。
「そうだな。でも、このまま接戦になってくれれば、あとは俺がなんとかしてみせるよ」
「フフフ、力強い言葉ね。それじゃあ、私と倭君で少しでも相手との差を広げて、トップ
で総次君にバトンを渡せるように頑張るわ」
千歳が微笑む。
「ああ、よろしく頼む」
「まかせて」
千歳は笑顔でそう答えると、自分の出番に備えスタートラインに立った。そして、第5走
者から2位でバトンを受け取り、走り出した。
千歳は参加者の中で紅一点だったが、そんなことを微塵も感じさせなかった。男勝りと呼
ぶに相応しい走りを見せ、ゴール直前でトップになり、次の走者である倭にバトンを渡す
ことに成功した。
───よし!
スタートラインに立った総次は心の中でガッツポーズをし、友人の奮闘に感謝した。
「伊倉先輩」
そのとき、隣にいた光騎が声をかけてきた。
「いよいよですね。この勝負、僕は絶対に負けませんから」
まっすぐ総次を見つめる。その瞳には明らかな対抗心が込められていた。
「俺も負けはしない」
総次も負けじと見つめ返す。両者のあいだで見えない火花が散る。ふたりはしばし見詰め
合ったのち、それぞれ視線を後ろに向けた。
そのあいだに、倭が春日山の選手に抜かれ、ふたたび形勢が逆転していた。しかし、その
差はわずかだったので、総次は慌てなかった。春日山の選手からバトンを受け取った光騎
が先に駆け出した。そのコンマ数秒後に、倭からバトンが渡された。
「すまん、総次!」
「あとはまかせろ!」
そう叫ぶなり、一気呵成の勢いで飛び出す。競技が最終局面に突入し、ひときわ大きな歓
声が上がった。それは竜虎相搏つ戦いの始まりを告げる合図でもあった。
総次の意識は前方に見せるライバルの背中一点だけに注がれていた。すぐ届きそうな位置
にあるはずなのに、どうしても追いつけなかった。この差ならと挽回できると思っていた
総次は、予想外の展開に焦りを覚えずにはいられなかった。
───くっ、このままでは・・・
募っていく焦燥感が心だけを先走らせる。
形勢不利。明らかな劣勢が総次に敗北の予感をもたらした。
そのとき、不意に光騎がちらりと後ろを振り返った。双方の視線がふたたび激突する。
あなただけには絶対に負けない。光騎の瞳がそう物語っていた。光騎がふたたび向き直っ
たあとも、刹那の相対が総次の脳裏から離れなかった。
───俺もおまえだけには負けられない!青葉ちゃんが見ている前で負けるわけにはいか
ないんだ!
総次は心の声で雄叫びを上げた。その瞬間、急に総次の全身が熱を帯び、意識が真っ白に
なった。
ときの間の出来事だったであろうか。白濁の世界に色彩が戻ると、総次は自分の体に何か
が触れたことに気づいた。それはゴールに張られていた白いテープだった。テープが宙に
舞ったのと同時に、観客席から大歓声が上がった。
───もしかして勝ったのか・・・
そう思ったとたん、総次は突然、激しい脱力感とめまいに襲われ、その場で倒れそうにな
った。そうなる直前で、光騎が慌てて総次のもとに駆け寄り、その体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「す、すまん。もう大丈夫だ」
ゆっくりと光騎から離れる。足元がおぼつかなかったが、それでもなんとか立つことだけ
はできた。
「さすがですね。正直なはなし、まさか抜かれるとは思ってもみませんでした。僕の完敗
です」
「俺もまさか勝てるとは思っていなかったぜ」
これが総次の本音だった。
「総次君!」
続いてやって来たのは千歳だった。彼女は真剣な面持ちで総次の顔をじっと見つめた。
「どうしたんだ?」
「あ、いや、総次君の目が真っ赤になっているように見えたんだけど、どうやら気のせい
みたいね」
「うーん、人間の目が真っ赤になるなんて、まずあり得ないと思うぞ」
「それもそうよね。変なこと言ってごめんね」
「いや、別に気にしてないからいいよ。こっちこそ心配してくれてありがとな」
総次は千歳の気遣いが嬉しかった。
「伊倉先輩、今回は負けましたけど、次は絶対に勝たせてもらいます」
光騎が総次の瞳を見据えながら言った。
「俺は次も絶対に負けないぜ」
総次も反発するように答える。
「また何かで伊倉先輩と対戦できる日を楽しみにしています。それではこれで失礼します」
光騎は会釈をしてその場から立ち去った。
こうして、竜虎の邂逅が終わり、皐月町の運動会は幕を閉じた。


運動会を終えて水無月家に戻った総次は、リビングのソファに腰掛け、足をマッサージし
ていた。多くの激戦をこなした足は限界に達しており、筋肉がすっかり凝り固まっていた。
「総次さん、もしかして競技中に足を痛めたのですか?」
リビングに姿を見せた青葉が、驚きの表情を浮かべながら近づいてきた。
「いや、足が少し筋肉痛になったみたいだから、こうしてマッサージをしているんだよ」
「そうなんですか。よかった、総次さんが私たちのせいで怪我してしまったら、どうしよ
うかと思いました」
安堵の色を見せる。
「総次さん、よかったら私が総次さんの足をマッサージしてあげましょうか?」
「え、本当にいいの?」
総次は意外な申し出に目を丸くした。
「ええ。これぐらいしかできませんけど、今日のお礼ということで是非やらせてください」
「それじゃあ、お願いしようかな」
「はい、それじゃあ、そこでうつ伏せになってください」
「了解」
彼女の言うとおりうつ伏せになる。すると、青葉が可憐な手で総次の右ふくらはぎを丁寧
にほぐし始めた。
「痛くないですか?」
「大丈夫。すごく気持ちいいよ」
総次は夢心地の気分で答えた。やはり自分ひとりで寂しくするよりは、可愛い女の子にや
ってもらうほうが断然いい。同じマッサージなのに、こうも違うのかとしみじみ思った。
「あ、お姉ちゃん、何をやってるの?」
青葉がマッサージを始めた直後、紅葉がこちらにやって来た。
「今、総次さんにマッサージをしてあげてるの」
「あ、そうなんだ。それなら、紅葉もやらせて」
「じゃあ、紅葉は肩のほうをお願いね」
「分かった」
紅葉は姉の指示に従い、総次の肩を揉み始めた。新たに生まれた心地よさが、さらに夢の
世界へと引き寄せる。
「お兄ちゃん、紅葉たちのために一生懸命頑張ってくれて、本当にありがとう。紅葉、す
ごく嬉しかったよ」
「総次さん、今日は本当にお疲れ様でした。総次さんには本当に感謝しています」
水無月家の姉妹は、口をそろえて感謝の気持ちを表した。
「いや、こちらこそいろいろとお世話になっているから、これぐらい当然のことだよ」
ふたりの言葉を耳にし、総次はみんなの役に立ててよかったと心の底から思った。しかし、
同時にまだまだ十分な恩返しをしていないことも認識していた。だから、もっと青葉たち
の役に立てるようになりたい。それが今の総次の大きな目標だった。
───青葉ちゃん、紅葉ちゃん、若葉さん、俺は少しでもみんなの力になれるよう頑張り
ます・・・
総次は睡魔の誘いを受けながら、強い決意を胸のうちに宿した。
「総次さん、総次さん」
それからどれくらいたったのだろうか。総次は青葉の声によって目覚めた。総次のそばに
は青葉と紅葉のほかに若葉の姿もあった。
「おはよう、総次君」
若葉はいつものようにたおやかな微笑みを浮かべた。
「あ、おはよう・・・じゃなくて、おかえりなさい、若葉さん」
総次は寝ぼけまなこをこすりながら体を起こした。
「気持ちよく眠っているところを起こしてごめんなさいね」
「いえ、どうやらいつの間にか眠ってしまったみたいですね」
総次はそう言うと、大きな欠伸をした。
「ところで、総次君。さっき、寝言を言っていたわよ」
若葉はさっきとは微妙に異なる微笑を浮かべながら言った。彼女の発言が総次に大きな衝
撃と動揺をもたらした。
「え、俺、なんて言っていたんですか?」
「それは内緒よ」
若葉が笑顔のまま即答する。その一言を耳にし、総次は寝言の内容がどうしても知りたく
なった。内緒と言われると、さらに気になるのが人間の心理というものだ。
「青葉ちゃん、俺、なんて言ったんだ?」
「それは内緒です」
青葉も母親譲りの笑みで同じ答えを返した。総次は救いを求めるかのように、紅葉のほう
に顔を向けた。
「紅葉ちゃん、教えてくれ。俺はいったい何を言ったんだ?」
「それは内緒だよ、お兄ちゃん」
紅葉は口もとに人差し指を当てながら愛らしい笑みを浮かべた。
「紅葉ちゃんまで・・・」
最後の望みを断たれ、総次の心に大きな不安と疑問が残された。
『ウフフフ』
そのとき、水無月家の母娘3人がいっせいに総次を見ながら笑い声を上げた。
───俺はいったい何をしゃべったんだ?
この日の夜、総次は疲れ果てているにもかかわらず、ほとんど眠ることができなかった。