ファーストプレリュード

翌朝、総次はクラスに入るなり、異様な雰囲気を感じた。クラスメートが次々と冷たい視線を送ってきたからである。
───どうなってるんだ?
あまりの変化に総次は首をかしげながら、自分の席に着いた。昨日の出来事を振りかえってみたが、全く見当がつかなかった。しかし、倭がこちらにやって来て、その理由がはっきりとした。
「おい、おまえが同棲しているって噂になってるぞ」
「はあ?なんでそんな噂が流れるんだ?」
「ほら、おまえが青葉ちゃんの家にいることが原因だと思うぞ」
「あのなあ、あれは同棲じゃなくて、同居っていうんだ」
総次は顔をあげて倭を睨みつけた。
「噂ってのは歪んで伝わるものなんだよ」
さらりと言ってのける倭。
確かにそうかもしれないが、そんなことでは、納得できない。
「まったく、誰がそんな噂を流したんだ」
総次は頬杖をついて、辺りを見回した。こちらをうかがっていた数人のクラスメートは、総次と視線が合ったとたん、気押されたかのように、コソコソと逃げ出した。
「ねえねえ、総次君。同居している女の子とイケナイ関係になってるって本当なの?」
千歳の登場で、朝から斜めに傾いていた機嫌が、一気に垂直となった。
「会話すら満足に出来ないのに、どうやってイケナイ関係になるんだよ」
総次はうなだれたまま、ため息をついた。
「冗談よ。総次君が、そんなこと出来るはずないって、分かっているから。でも、女の子のあいだでは、そういう噂になっているわよ」
「なんか話が大きくなってるみたいだな」
神妙な面持ちで総次を見る。
「まあ、ひとの噂も七十五日って言うし、しばらくすれば、元通りになるわよ」
「昨日といい、今日といい、どうしてこんな目に合うんだ」
総次は憮然としながらつぶやいた。
「昨日、何かあったの?」
「ああ、実は・・・」
総次は浴室で起こった出来事について話した。
すると、倭と千歳は同時に大笑いした。
「おい、ひとの不幸がそんなに面白いのか!」
怒りと恥ずかしさのあまり、顔が紅潮し始める。
「わりい、わりい。笑っちゃいけないのは分かるんだが、想像したらつい笑いが・・・」
倭は懸命に堪えていたが、また笑い出した。
「ちょっと、あんまり笑わせないでよ。アハハ、お腹が・・・」
一方、千歳は容赦なく笑い転げていた。
「おまえたちに話すんじゃなかった」
笑い者にされ、ふてくされる。
「わりい、そう怒るなって。俺も好きで笑ったんじゃないんだ。おまえのそのときの姿を想像したらつい・・・」
「ゴメン、ゴメン。確かに総次君にとっては笑いごとじゃないよね」
千歳と倭は慌てて謝った。
「だけど、この噂のせいで、水無月さんとの関係が、さらに悪くなるかもしれないわね」
「そうなる可能性が極めて高いな」
総次は新たな不安に頭痛を覚えた。
昨日が昨日なだけに、事態が深刻な方向に向かっていることは確かだった。悪いときには悪いことが重なるというが、今がまさにその典型的なパターンだといえる。日頃の行いが悪いせいではないかと、自分自身を疑ってしまった。
「総次君は、昨日のことをちゃんと水無月さんに謝ったの?」
「いいや、謝っていないけど」
「やっぱりね。駄目じゃない、ちゃんと謝らないと」
千歳は真顔でたしなめた。
「謝るって俺は何も悪くないぞ」
総次が非難の声を上げる。しかし、千歳は臆することなく話を続けた。
「総次君の言い分も分かるけど、ここはきちんと謝るべきよ。女の子って、とてもデリケートなんだから、もっと優しく接してあげなきゃ」
「そうか。それなら、きちんと謝ったほうがいいな」
「絶対にそのほうがいいわよ。うまくいけば、それがきっかけで仲良くなれるかもしれないしね」
「そうなってくれるといいけどな」
まずありえないことだが、つい期待してしまう。この際、どんなきっかけでもいいから、なんとかしたいというのが、今の現状なのだ。
「うーん、女の子はデリケートって千歳が言うと、なんか説得力に欠けるな」
倭が口を開いた瞬間、千歳のこぶしが炸裂した。
「殴るわよ」
「もう殴ってるだろ」
頭を押さえながら、恨めしそうに見上げた。
「そんなんだから、いつまでたっても彼女が出来ないのよ」
「うっ、そ、そういうおまえこそ彼氏がいないじゃないか」
倭は苦虫を噛み潰したような顔をしながら言った。
「私は大丈夫よ。いつかきっと白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるから」
千歳は余裕の表情を浮かべて答えた。
「白馬の王子様じゃなくて、竜にまたがった魔王の間違いじゃないのか」
ここぞとばかりに、倭が反撃に転じた。
しかし、反撃もここまでだった。
「ふーん、そんなこと言うなら、もう二度と倭君に英語のノート見せてあげないから」
千歳がツンと顔を横に向けると、倭はたちまち降参モードに入った。
「も、申し訳ありません、千歳様。今の発言を取り消させてください」
倭は大きな体を目一杯小さくさせてひれ伏した。
「ふーんだ、許してあげないもん」
千歳はそっぽを向いたまま、足踏みをした。
「先程のお詫びとしてジュースをおごりますから、それでお許しください」
「私、『アリエス』のドーナッツが食べたいなー」
横目でちらりと倭を見る。
「分かりました。ドーナッツをおごりますので、今度の英語のテスト前に、またノートを貸してください」
倭はさらに頭を低くした。
「よろしい。そこまで言われたら、仕方ないわね。今のことは水に流してあげましょう。それじゃ、ドーナッツは今週中にお願いね」
千歳はそう言うと、軽い足取りで自分の席に戻った。
完敗を喫した倭は、すがるような目で総次を見た。
「総次、一生の頼みがある」
「金なら貸さんぞ」
総次がそっけなく言うと、倭は制服の袖をつかんで詰め寄った。
「千歳にドーナッツをおごったら、欲しいゲームソフトが買えなくなるんだ。だから、武士の情けだ、金を貸してくれ」
余程そのゲームソフトが欲しいのか、倭は必死になって頼み込んだ。
「しょうがないな。そのかわり、俺にもドーナッツをおごってくれ」
「分かった、利子としておごることにしよう」
「うむ、交渉成立だな」
倭の執念に根負けした総次は、財布から千円札を3枚取り出した倭に渡した。
「かたじけない、伊倉殿。この借りは必ず返すぞ」
倭は満面の笑みを浮かべて、総次の手を握った。
「その言葉を信じるぞ、嵐山殿」
総次はその手を強く握り返した。


学校が終わり、水無月家に戻った総次を意外な人物が出迎えた。水無月家の長女、青葉である。今まで自分を避けていた彼女が、自ら近づいて来たことに、驚きと安堵が重なり合った。
───よし、謝るなら今だ。
総次はこの絶好の機会を利用しようと目論んだ。ところが、青葉が口を開いた瞬間、それは脆くも崩れ去った。
「あの、いい加減なこと言わないでください」
「え?」
予期せぬ言葉に、総次は唖然となった。
「同棲しているなんて言われて迷惑しているんです。あなたが変なこと言いふらすから」
感情を押し殺しているせいか、声がかすかに震えていた。どうやら、同棲の噂は予想外のおまけがついて、青葉の耳に入ったようだった。無論、同棲しているなんて総次は一言も言っていない。いわれのない罪を着せられ、次第に怒りが込み上げてきた。
「ちょっと、待ってくれ!俺がそんなこと言いふらす訳ないだろ!」
総次が声を荒げると、青葉1歩後ずさった。
「あなたが言いふらしているって、クラスの男の子たちが言っていたわ!」
青葉は左手を胸に当て、語気を強めた。
「それは根も葉もないデタラメだ!だいたい、俺だってあの噂に迷惑してるんだ。いくら、俺のことが嫌いだからって、ひとのせいにするな!」
今までたまっていたフラストレーションが一気に爆発した。いや、これは爆発というよりは暴発だった。総次がそのことに気付いたときには、もう手遅れだった。青葉は華奢な体を小刻みに震わせていた。目にうっすらと涙を浮かべながら。
「あなたが・・・あなたがこの家に来なければ、こんなことにはならなかった・・・!」
青葉は大粒の涙をこぼしながら、逃げるように2階へ続く階段を駆け上がった。
───な、泣かしてしまったあ!
罪悪感と後悔の念が津波となって襲いかかった。怒りで我を忘れたとはいえ、自らの手で最悪の結果を招いてしまったのだから、悔やんでも悔やみきれない。
短気は損気───
まさに今の出来事がそれを象徴していた。
これで青葉との関係は、修復不能になったかもしれない。それだけではない。このことが原因で、若葉や紅葉まで敵に回す可能性だってありえる。いくらふたりが優しくても、血の繋がった身内を泣かされたと知れば、青葉の肩を持ってもおかしくない。そうなれば、新生活が針のムシロに包まれるのは必至だった。次々と連想される悪い予感に、総次は打ちひしがれた。
孤城落日となりつつある状況に、今は成す術が見つからない。ただ、出来ることといえば、途方に暮れることだけだった。